量は質を凌駕する

 ~ アウトドアと読書の日記

昨日の記事の続き。思ってる残りのことを全部書く。勢いつけないと書けないので言葉の選択が不適切なところはご容赦くださいね。



やはり脚にチカラを入れないでクルクル回すというのは以前から相当重要だと思っていたようで、2年前のつくばのレポにもこんな絵を描いている。

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これはどっちかというと骨盤からクルクル回そうぜっていう意味だった気もするが、実際にやることは同じ。

で、歩くときにも腹筋にチカラを入れると脚をクルクル回して歩くことができる。もちろん走る時と同様に骨盤を前傾させて背すじをしっかり伸ばさないとダメだが。自分は通勤の時は常にこれで歩いている。脚がクルクル回る姿勢が良い姿勢ということで、腹筋の使い方の練習になっている。

ちなみに疲労抜きジョグの時も同じ。回転の大きさを変えているだけでクルクル回す意識は同じ。クルクル回すときは必ず腿を上げるので、それで腿を上げる筋肉、特に遅筋を鍛えたいのだ。マラソンの最後に来て脚が出なくなる理由はここにあると思っている。

これは別にオレが勝手に思っているわけではない。例えばアフリカ人選手は体幹が強いだけではなく脚もそういう形になっている。
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以前、アフリカ人選手は体幹が強くて着地衝撃も体幹で受けているから脚が細いんじゃないかと思って写真をたくさん見たのだが、いずれも上のヌデレバのように太腿は非常に太かった。なーんだ、やっぱり脚力で走ってるんじゃんと思ったのだが、よく見ると膝のすぐ上は細く股に向けて太くなっている。アフリカ人選手は漏れなくそうだ。ハムストリングスと同じくらい上のほうの大腿四頭筋が発達している。

着地衝撃を太腿で受けていたらもっと膝のすぐ上が太くなるはず。つまりこれは膝を上げるための大腿四頭筋が発達しているということなのだろうと今になって理解した。よく見ると全体に太いわけではなく、前腿の外側に発達してますね。断面は楕円だね。

そしてこの筋肉はウェイトトレーニングではなく走り込みによって付けた遅筋だろう。これで大きなストライドがフルマラソンの最後までとれるのだと思う。この筋肉をつけるには普段から膝を上げてクルクル回す走り方しか無いと思う。でもそれで全部辻褄が合う。

ちなみに腿上げは脚の使い方をカラダに覚えさせる練習であって遅筋を鍛える練習ではない。1日に数十秒とか数分やった程度ではこんなに筋肉は付かない。効率的な脚の上げ方は身につくのでもちろん無駄ではないと思うのだが。



まとめると、体幹を鍛えて脚の支点である股関節をしっかり固定する。膝を上げてクルクル回してストライドを大きくとるための遅筋を鍛える。脚のチカラは抜く。



脚のチカラを抜くと最後まで脚力を持たせられやすくなるだけではなく、余計なチカラが入らないことで故障のリスクも減る。自分も練習も本番も考えているのはいかに変なチカラを入れてないかということと左右のバランスだけ。変なチカラを入れると、気付いたら部分的に筋肉がメチャクチャ張っていたりする。故障の元だ。

意識して脚を使おうとすると変なチカラが入るので、形がどうなっているかなんていうことは一切考えない。着地位置も脚を意識しなくても上半身の姿勢一つで調整できる。足がカカト着地になってきたなと思ったら、骨盤の前傾が緩んでいるので腰を入れて背筋を伸ばせば、だいたいはミッドフットになる。

あとは足の裏を脚全体で持ち上げる意識を持てばミッドフット着地に自然になる。スケートの要領だ。スケート選手のようにスケート靴の刃を地面と平行に持ち上げ、そっと降ろせばよい。地面に乗るのもスケートのようにそっと乗るとなお良し。

ちなみに腕振りにも腕のチカラは要らない。体幹の上の端である肩をクイッと押せば簡単に腕は振れる。腕振りで体幹を動かしているわけではなく、腕は脚の対角線側に付いて釣り合いを取っているオモリだ。



脚に力を入れないのに大腿四頭筋が発達するのは矛盾していると思われるかもしれないが、脚のチカラを入れないというのはあくまで意識の問題。そうでなければそもそも立っていることもできない。正確には「余計なチカラを入れない」だろう。




これで最近ランニングフォームについて考えていることはだいたい吐き出せた。最後に遅筋について。

最近30代で伸び盛りのランナーと話す機会があって、何しろ伸び盛りだから走るたびにPB更新、次はいよいよサブ3を狙う位置にいてずいぶん緊張しているらしい。そこで思わず「コツコツ距離を踏めば遅筋が鍛えられて勝手にタイムは付いてくるから、サブ3なんて時間の問題です」と申し上げた。

実際、短い距離が速い人がしっかり距離を踏んで行けば必ずマラソンのタイムは向上していく。それは遅筋が鍛えられるからだ。たぶん言い切って差し支えない。短い距離が速い人は距離を踏むにもペースが速くなりがち。そういう人が距離を踏む練習をすると故障をしてしまうケースもあるのだが、それは距離を踏んだせいというよりはペースが速いからなのではと思っている。キロ6キロ7でも十分遅筋は鍛えられるのだ。あとはそのペースでイライラしないで辛抱して走れるかどうか。

自分も本格的にタイムを狙って練習するようになって6年。太腿の形はずいぶん変わってきた。年々タイムあるいはVDOTが伸びているのも着実に遅筋を積み上げてきた効果が大きいと勝手に信じている。



そろそろ自分でも結果を出さないと(笑)



今日も疲労抜き12km。退屈だった(笑)


本日の走行距離:12.3km
今月の走行距離:153.0km
本日の最低体重:61.0kg
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先日の下り坂で腸腰筋を使うという説明には続きがある。

いったい全体走るときに腹筋ってどう使うんだ、というお話。サトさんが元箱根ランナーにアドバイスされたのは、内転筋と腹筋と体幹を使う、脚で走らない、だったっけ。実は内転筋、腹筋は分かるのだが、体幹が分からない。というか、体幹という筋肉は無いので三つ並べるのはそれなりの意味があるのだろう。

内転筋についてはかなり前に書いた。プロネーションを補って拇指球に乗るには内転筋だ。腹筋に行く前に体幹についてはいくつかあって、一つは以前も出したこの絵。タイトルなし
これは1年位前に描いた気がするが、今はここまで捻るイメージはなくて、両腕・両脚の付け根をちょびっとだけクイッと前に着き出すイメージでいる。ただそのためには、両腕・両脚の付け根が構成する「平面」をしっかりと固定させる必要がある。上の絵のようにグネグネ捩れていてはいかん。

ある意味その4つの点を頂点にする長方形の板、剛性の高い板をイメージしたほうがいいかもしれない。剛性を高めるために上の絵の上下の青い梁をつなぐ赤い部分がしっかりしていないとならない。これが一つ目の腹筋の役割だと思う。

ここがしっかりすればするほど、腕も脚もチカラを入れなくてもクルクル回るようになる。中心に行くほど力を入れて末端に行くほどチカラを抜く。自分が柔らかい着地の手応えを感じたのは、体幹のこの感じを掴んだから。今、体幹、と書いたが上の絵で言う青い梁とそれをつなぐ赤い腹筋をひっくるめて体幹と呼んでます。英語で言うトルソですね。腹筋はトルソの主要パーツなので、体幹と腹筋を並列にするのはなんとなく違和感があるわけです。



ただ一方で腹筋の役割は上の赤い柱だけではない。脚を軽くクルクル回すためには腹筋にはもう一つやってもらいたい役割がある。それは脚の支点をきっちり固定すること。実際には下腹にぐっと力を入れてひっこめる感じ。分からなければ「ドローイング 腹筋」で検索してみて下さい。腹式呼吸で膨らませた下腹部を息を吐きながらひっこめる感じ。

走りながらこれをやると、急に脚が軽く回るのを感じる。オレの場合。

腹筋にチカラを入れる → 脚の支点である骨盤が固定される → 脚の回転がスムーズになる、ということだろうと思っている。軸受にガタがあったら自動車だって走れないですからね。脚が軽くなることで脚も疲れなくなる。これが二つ目。

絵に描くとこんなイメージ。あくまでもイメージ。コアファイターが上半身にドッキングする感じ。ますます分からん。
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三つ目の腹筋の役割。脚にチカラを入れない走りは脚の負担が減る。だから脚が最後までクルクル回ることになるのだが、一方でこの写真を見てください。
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最近ヨガポーズをとるようになってよく言われるのは「体幹が強いんですね!」。でも自分はプランクはせいぜい1分しかできないしサイドプランクは20秒くらいだろう。体幹は別に強くないです。一本足で立てるのはひざ下の筋力のお陰だと思う。実際こうやって立っている時はひざ下に凄くチカラが入っている。

同じように、脚に力を入れて走っていた時はカラダのバランスを取るには脚力でカラダのバランスを取っていた。体幹でバランスを取る必要は無かった。

しかし脚の付け根をしっかりさせて脚のチカラを抜いて走っていると、以前よりも腰から上がぐら付くのを感じる。その時は腹筋の動きでバランスを取っている。脚が楽をする代わりに腹筋を含めた体幹の動きが必要になったわけです。これが三つ目の腹筋の役割。



もうほとんど体幹と腹筋の区別なく書いているが、あくまで腹筋は体幹の一構成要素。実際にはこんなに各々の役割が分かれていなくて混然一体として作動していると思うので、あくまでも切り口としてとらえてもらえれば。あとは腹筋と簡単に書いているが、本当は肩と股関節の間にあるすべての筋肉なんだろう。


いやー。分かりにくい(笑)




今日は疲労抜きで12km。体調は相変わらず良い。調子が悪い時は疲労抜きジョグも2kmくらいでやめたくなるが、今はむしろ走るほどにペースが上がってくる。体調が良い証拠だ。

そして昨日からジョグの最後に流しを2本ずつ入れ始めた。200mを40秒くらいで。キロ3分20というところか。次の大会は2月3日の浦安ハーフなのでこれ以上上げてもしょうがない。ただし残り1か月続けよう。



今日はだいたいそんな所ジョージ秋山。

本日の走行距離:12.0km
今月の走行距離:140.7km
本日の最低体重:61.5kg
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チャンドラーの村上春樹版「ロンググッバイ」を読んだ。ハードボイルドの割には、主人公のマーロウが思っていた以上に感情的でいちいちシニカルなのに驚いた。もうちょっとクールな主人公を想像していたのだが。

さらに本のあとがきに村上春樹が小説家のアプローチ方法の違いについて書いている。さすがは村上春樹、あとがきだけで一冊の本になりそうな内容だ。その中で、小説家は何を直接的に描くものなのかという点について、こういうことを言っている。

多くの小説家は意図的に、あるいは無意識的に、自己意識について語ろうとする。あるいは様々な手法を用いて、自己意識と外界の関わり方を描こうとする。それがいわゆる「近代文学」の基本的な成り立ちである。我々は人間の自我の作動状況がどのように有効に文学的に表象されているかーー具象的にであれ抽象的にであれーーによって、その文学作品の価値を決定しようとする傾向を持っている。しかしチャンドラーはそうではない。文章的には極めて雄弁であるものの、人の意識を描こうというつもりは彼にはほとんどないようだ。

小説というものの発祥以来、登場人物の意識をいかに表現するかということは作家にとっての大きなテーマだった。これに対してチャンドラーは意識を直接表現しようとするのではなく、何が起こったかを淡々と書いていく、ということらしい。確かに「私は寂しさを覚えた」とか「怒りがつのった」みたいな表現はまったく無くただ何が見えたかとか何が聞こえたかという客観的事実(主人公の主観だが小説自体が一人称なので読み手からすれば客観的事実に見えると言えるだろう)が並んでいる。チャンドラー自身は小説表現についてこんなことも言っている。

チャンドラーは彼の考える物語の性質について、ある覚え書きの中にこのように書き記している。「もしあなたが、朝起きたときに腕が三本になっていた人間の物語を書くとすれば、その物語は腕が一本増えたためにどんなことが起こったか、というものでなくてはならない。腕が増えたことを正当化する必要はあなたにはない。それはすでに前提としてあるのだ」と。つまり腕が一本増えたために主人公がとる行為と、その行為が招聘するであろう別の行為との相関性の中に、腕が増えた理由も(自発的に)暗示されていくべきだというのが、チャンドラーの考え方なのである。

腕が三本・・・・。難しいのはもし最初から腕が三本あることが前提なのであれば、例えば両耳を抑えながら立小便をすることも可能なのだが、それをいきなり前置き無しに書かれたら面食らう読者が続出だろう。いくらなんでも読んだ瞬間に「ああ、これは主人公に腕が三本あるんだな!」とはならない。しかし多くの小説は読み進むにつれて背景が明らかになっていくという形式を取っているので、その中でそんな特殊な前提条件をいかに自然に、上で言うところの「自発的に」読み手に理解させるのかというところも作家の腕の見せどころではある。

チャンドラーが言っているのはハードボイルド小説の書き方ではなく一般的な小説の書き方を述べているのだが、ではためしに意識の表現を極力避けてランニングブログを書くとどうなるか。

42km近くを走り私は陸上競技場に戻ってきた。ゴールまでは残り300m。私の時計は2時間58分50秒を指していた。肺、それに足裏、ふくらはぎ、太腿、カラダのすべてが焼ける音がする。おそらくゴールまでたどり着いたらそこからは一歩も動けないだろう。もう時計は見ない。周りのランナーが激しく息を吐く音だけが響く。彼らも事情はまったく同じだ。しかもこの競争は先着順ではない。時間内にゴールに到達できるものには等しく褒美が渡される。

ゴールゲートの上のデジタル時計が2時間59分を表示しているのが目に入ってくる。なぜか秒の表示が見えない。ゴールゲート横では大会役員や観客が私たちに向けて何かを叫んでいるが何を言っているのかは聞こえない。脚を回す。グルグル回す。腕を振る。グルグル振る。汗が目に入る。足がゴールマットにかかる。そしてその瞬間に沿道の彼らの口からは大きなため息が漏れる。

すぐ横でトラックに四つん這いになって嗚咽するランナーの姿が目に入った。抱き合うランナーもいた。どうやらここには天国と地獄が共存しているようだ。係員の誘導に従い記録証発行エリアでに進むと、突然右脚のハムストリングが痙攣を始めた。私は立っていられなくなってそこに座り込んだ。雨上がりのグラウンドの冷たさがランパン越しに伝わってくる。私は座り込んだまま必死に脚のストレッチを始めた。今やゴールタイムよりもこの痛みから逃れることの方が重要だった。そして地獄からも。
チャンドラーの言うとおりに書いたらなんとなくハードボイルドっぽくなった。「オレは今天国と地獄のどっちにいるのか」とか「悔しさで私の胸はいっぱいになった」みたいにこの「私」の心の情景を書きたくなったが我慢。

ちなみに村上春樹はマーロウに「やれやれ」とは言わせていない。村上春樹は主人公を「僕」と書かなくなってから面白くなくなった。それは「やれやれ」と主人公が言わなくなったのと同じころだ。



数か月前に「これからはネットを検索しないでブログを書く」と表明した。そこでやりたかったことは、自分の頭の中にあることの純度を下げないこと。それが自分の意識のベースになっているのだから、自分の誤解も含めて頭の中にあるもので文章を構成する。その方が自分の意識がより伝わるのではないかと思った。

小説では書き手が語り手を作り出す。特に主語が一人称になっているとそのことが良く分かる。自分が言っているのは書き手の意識がどこから来るかの問題。チャンドラーが言っているのは語り手に何を語らせるのかの問題。もちろんブログでも語り手を作り出すことはできるので、オカマに語らせても良いのだが。

オレの説明の巧拙はともかく、村上春樹の小説についての解説は実に分かりやすいなと思った次第。ちなみに「ロンググッバイ」は 確かに登場人物たちの自我は直接には表現されていないが、彼ら彼女らの自我のうねりが実にダイナミックに楽しめる小説でした。そして失われた友情への「ロンググッバイ」。


本日の走行距離:12.0km
今月の走行距離:128.7km
本日の最低体重:61.7kg
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