1497年7月、約170人の男たちを乗せた四隻の帆船が、一路インドをめざしてリスボンを出航した。この船団を率いていたのが、ポルトガルのマヌエル一世に抜擢された若き航海士ヴァスコ・ダ・ガマだ。
「新大陸発見」のコロンブスの陰に隠れて歴史上あまり目立たない存在だが、東方との交易ルートを探るという当初の目的を達成したのはガマだった。著者によると、ガマをはじめ、船団や密偵を東方めざして送り出したキリスト教君主国の目的は、香辛料や絹などの交易だけではなかった。当時、紅海を舞台にアジアとヨーロッパとの交易を仕切っていたムスリム商人を排除し、伝説のキリスト教徒プレスター・ジョンの王国を発見して、イスラーム勢力を挟撃するという使命も帯びていたという。
本書は、このアフリカ周りの「インド航路発見」にいたる過程を中心にガマの三度に及ぶ航海の足跡をたどり、イスラームの発祥から、小国ポルトガルが世界の覇権国へと変貌し、やがて衰退していく様子を、残された航海日誌や旅行者の記録などを引用しながら壮大なスケールで描いた歴史書である。本書は、優れた歴史ノンフィクションに与えられるヘッセル=ティルトマン賞の最終候補となるなど、英米で高く評価された。

ヴァスコ・ダ・ガマの「聖戦」: 宗教対立の潮目を変えた大航海ヴァスコ・ダ・ガマの「聖戦」: 宗教対立の潮目を変えた大航海
(2013/07/24)
ナイジェル クリフ

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コロンブスやマゼランに比べると日本ではあまり知られていないヴァスコダガマの物語。しかし上の解説ににあるように、西洋の歴史に与えた影響は相当大きかったようだ。

そもそもヴァスコ・ダ・ガマがインドを目指したのは、香辛料がイスラム圏経由で輸入されるために高価なものになっており、産地と直接交易するためだった。その戦いの中で、特にインドのカルカッタとの間で激しい戦闘が起きるのだが、ヴェネチアは西洋の国にもかかわらず、ポルトガルが直接交易をはじめると利権を失うことから、インドに加担する。さらにはこの戦いは、香辛料をめぐる経済的戦争から、十字軍が耐えて久しい聖地奪回、宗教的戦争へと発展していく。

エネルギーと宗教で人は戦うというテーマが普遍的であると言いたかったようなのだが、イスラム対キリスト教という側面にとらわれすぎているように思える。本書ではあまり言及されていないが、小国であったポルトガルがこれだけがんばって勢力圏を広げた背景には、当時のヨーロッパの不安定な国際情勢があったはずなのだ。ローマ、神聖ローマ帝国、カスティーリア、ヴェネツィアなどなど。それらの国々の間での勢力争いの一環が東方での利権獲得であったはずで、そこを強引に十字軍だけにつなげるのは無理がないか。しかもインドはムスリムだけではなくヒンドゥー教の国でもあったわけだし。ムスリムの描き方にも著者のイスラム教徒への偏見が少しだけ見え隠れするような気もする。

ヴァスコ・ダ・ガマに注目すると、ポルトガルという小国に現れた稀有な英雄(でも虐殺王)は、歳を取るにつれてその行動がどんどん極端になっていく。最初の航海ではインド発見の野心に燃える若き冒険者。二回目の航海では母国の名誉のために現地で虐殺を繰り返す戦争マシーン。そして最後の航海では、インドの権益を守ることが自分のこれまでの秘跡を守ることにつながる老醜の提督。

最後にコロンブスとの比較を。本書においてはコロンブスは、簡単な仕事を要領よくやっつけただけで、過大な評価をものにした男として取り扱われている。以下の一文がその差をよくあらわしているので引用したい。

>コロンブスが西へ順風を受けて出港し、三十六日で陸に達したのに比べ、ガマは大西洋を周回し、アフリカの東海岸を伝い、インドへと横断し、あらゆる不利な条件を克服して帰還した。コロンブスが数人の原住民と話し合いをしたのに対し、ガマは敵対的なスルタンたちをかわし、強大な王たちと交渉し、香辛料、手紙、人質を持ち帰ってそれを証明した。コロンブスが発見したものがなんであれーーそれはまだ少しも明らかになっていなかったーー、ガマは東洋への航路を開き、イスラーム世界を迂回する道を示した。

面白いのだが、若干の偏りを感じる本。先日読んだ「炭素文明論」の方が、よりフェアな歴史認識に基づいているように思う。☆☆。

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