地獄の黙示録 特別完全版 [DVD]地獄の黙示録 特別完全版 [DVD]
(2013/06/26)
マーロン・ブランド/ロバード・デュバル/マーティン・シーン/デニス・ホッパー

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「地獄の黙示録」は難解な映画だ。特別完全版がリリースされてから少しマシになったが、特に最後のカーツ大佐殺害シーンは意味がわからないという意見も多い。これに対して当初の劇場版に向けて80年ごろに雑誌「諸君!」で解説を書き、特別完全版リリースに当たっても再度解説を書いた立花隆の本は一読に値する。



解読「地獄の黙示録」 (文春文庫)解読「地獄の黙示録」 (文春文庫)
(2004/08/04)
立花 隆

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値するのだが、これをよんで本当に映画「地獄の黙示録」が理解できるかというとたぶんそうでもない。立花はこの作品が「映画に文学を持ち込んだ傑作」だとし、TSエリオットや金枝篇、ギリシア神話や聖杯伝説を持ち出して、作品のディテールがこれらの文学作品などになぞらえられていることを説明する。

たとえばウィラード大尉が川をさかのぼってカーツ大佐の神殿にたどり着く、というあらすじ自体が聖杯伝説をモチーフにしているという。またカーツ大佐が殺害されるシーンに流れるドアーズの曲の歌詞が父親殺しをモチーフにしていることから、ウィラードによるカーツの殺害を息子による父王の殺害と王位継承の物語だとしている。



ただそうするとかなり疑問になってくるのは、この舞台がなぜベトナムなのかということだ。コッポラは「これはベトナムについての映画ではなく、この映画がベトナムそのものなのだ」と語った。立花の論には、これらの文学作品をモチーフにすることが、なぜベトナムを語るために必要だったのか、という繋がりの説明が欠けている。

ウィラードはカーツ暗殺の命を受けて川をさかのぼる途中で、キルゴア大佐の殺戮場面やフレンチプランテーションなど、ベトナム戦争の欺瞞をいくつも目にし、それらの欺瞞をそぎ落としていくことで次第にカーツに同化していく、と立花は語る。確かにキルゴアが集落を襲撃しておいて、敵の傷ついた兵士に「こいつははらわたがはみ出すまで戦ったのだから、水を与えて助けるべきだ」というのは大いに欺瞞だと思う。しかしそれにあきれたからといって、自分たちが誤射し傷ついたベトナムの一般市民に「自分たちが撃った相手にバンドエイドを貼っても仕方がない」といって射殺するようになるのか。それはもともとウィラードがそういう兵士だったからなのではないのか。




もっとも重要な原作の「闇の奥」との差異の問題。原作のクルツは欺瞞に満ちた人間だが、いまわの際になって「恐怖だ!」と叫ぶ。一方のカーツ大佐も死の間際に「恐怖だ!」と叫ぶが彼には欺瞞はない。クルツの恐怖が死の恐怖なのに対し、カーツの恐怖は現世に対する恐怖にも思えるという立花の指摘はさすがだ。ただそれはいいのだが、そうであればカーツはもっと徹底的に自らの帝国を殺戮の限りをつくす恐怖の集団に仕立てなければならなかったのではないか。

確かに映像にはカーツの帝国には死体が散らばっている様子が描かれている。しかし残念ながら殺戮シーンそのものがないため、彼らが恐怖の集団である、という印象がまったく伝わってこない。ただ気味が悪いだけだ。そんなままごとをやっている集団の王様がカーツ。しかもでっぷり太っている。この映画は確かにすごい作品だと思うのだが、最後の帝国のイメージを作り損ねたところで非常に損しているのがわかる。立花はこれをシンボリックに捉えるべきだというのだが、そうすると前述したとおりシンボリックに捉えることでベトナム戦争をどう理解させようというのかの意図がよくわからない。





もちろんこれは、立花の意見がこの映画を説明し切れていない、ということであって、それがゆえに映画としての価値が減じられるわけではない。私は最後のカーツの帝国のシーンはあまり評価していないが、それにいたる川をさかのぼる道中の映像とプロセスは本当にすごいと思う。単なる派手な戦闘シーンから、プレイメイトの慰問、取り残された基地、フランス人の村を経て戦争の現実がむき出しにされていく。その過程こそこの映画のすごいところだ。ここを大幅に削った最初の劇場公開版の編集はいったい何を考えていたのか・・・