土の匂いに導かれて離ればなれの家族が行きつく場所は―。前作『すばらしい新世界』の幸福なあの一家になにが起きたのか。現代に生きる困難とその果てにきざす光を描く長編小説。
信じていた夫に裏切られて娘をつれて外国で暮らす妻が、自然と共生する生き方に目覚め、同時期に同じく自然に目覚めた夫との関係を振り返るお話。本作も、本作の前作にあたる「すばらしい新世界」もとても読みやすく理解しやすい。なので、先日(10/16)4時間近く電車に閉じ込められている間に、500ページ強の本作をほとんど読んでしまった。まあこの本があって助かったのだが・・・。 解説で角田光代が「この本は理系の本」と書いている。確かにアートは感じない。作品に取り掛かる前に「このプロットでこの線を出して、この線とこの線がつながって・・・」という作業を延々とやっていそうな気がする。
というのは、前作の「すばらしい・・・」もそうだが、登場人物のせりふがパッチワークな感じがあるのだ。あたかも「ここでこういう意図をもってこういうことをしゃべらせる」という小説構成上の計算が見え隠れする感じがある。もしかすると本作が新聞連載小説だったからかもしれないが、小説を書く上では、予め机上で計算したプロット構成を完全に原稿用紙の上でなぞりきれるとは限らない。筆が進んできてその箇所に来ると、前後のちょっとした言葉遣いの違いによって、別の表現をしたくなる(言わせたくなる)ことだってあるあずなのだ。しかし本作では、そこを強引に当初の意図通りに書こうとした不自然さが感じられる。
いや、しかしあれも、池澤夏樹の計算だったのかもしれないな。まだ「すばらしい・・・」を未読の方には申し訳ないが、前作であんなに仲がよかった夫婦は本作では離婚寸前である。といっても前作で妻・可南子のせりふが浮いていたから、実は自分にはあまり意外感がない。肩に力の入った、夫のやることなすこと全て先走って話す、妙にテンションの高い感じ。それが夫に対する必要以上のこだわり、依存とも見えたのだなあ。なので本作で夫が浮気した瞬間に妻の中で何かがポンとはじけてしまったようなのだが、通して読んでいると、逆にこの部分はとても自然だ。でも前作だけを読むと何か違和感が残るのだ。
実は「依存」は本作における重要なテーマでもある。夫婦間あるいは家族間の相互の依存による問題、すなわち前作では妻の夫に対する精神的依存、本作では離婚したときの経済問題がクローズアップされる一方で、現代経済における極端な分業による相互依存とそこからの脱却、すなわち自給自足経済のあり方みたいなものが同時並行で語られている。最終的には、依存する・しない、分業する・しないではなくて、それらを超越した精神的な自由を求めることが大事、というある脇役の生き方が紹介されることで、みんななんとなく幸せになるというのが結末だ。
ところで本筋とは関係ないが、相互に依存しない自給自足経済はそれだけみればあまり効率的ではない。でもその非効率さって、いざ外部からの供給が途絶えたときに自分でやっていけることに対することで、保険料を支払わないですむ分と相殺される。通常の分業をして自分が単品しか生産していないとき、実はすごく大きなリスクを採っているのだが、普段はそれには気づかない。そして供給が途絶えたとき初めてリスクの大きさに気づくのだ。堺屋太一の「油断」の世界ですね。
本作は、カタログ的にいろんな自給自足的生き方があることがわかる本なのだが、そのあまりにも意図的に配置されたプロットは小説として読む意味があるのか、最後までよくわからなかった。もしかすると、池澤氏のあの抑揚のない文体がそう思わせているのかもしれないが。それにしても、前作ではエコロジー的な側面は夫婦の相互依存とはほとんど絡めていなかったけれど、本作ではガラリと雰囲気が変わりました。連作なのにこんなにテーマの持ち方が違ってもいいんでしょうか。☆☆☆。
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光の指で触れよ (2008/01) 池澤 夏樹 商品詳細を見る |
信じていた夫に裏切られて娘をつれて外国で暮らす妻が、自然と共生する生き方に目覚め、同時期に同じく自然に目覚めた夫との関係を振り返るお話。本作も、本作の前作にあたる「すばらしい新世界」もとても読みやすく理解しやすい。なので、先日(10/16)4時間近く電車に閉じ込められている間に、500ページ強の本作をほとんど読んでしまった。まあこの本があって助かったのだが・・・。 解説で角田光代が「この本は理系の本」と書いている。確かにアートは感じない。作品に取り掛かる前に「このプロットでこの線を出して、この線とこの線がつながって・・・」という作業を延々とやっていそうな気がする。
というのは、前作の「すばらしい・・・」もそうだが、登場人物のせりふがパッチワークな感じがあるのだ。あたかも「ここでこういう意図をもってこういうことをしゃべらせる」という小説構成上の計算が見え隠れする感じがある。もしかすると本作が新聞連載小説だったからかもしれないが、小説を書く上では、予め机上で計算したプロット構成を完全に原稿用紙の上でなぞりきれるとは限らない。筆が進んできてその箇所に来ると、前後のちょっとした言葉遣いの違いによって、別の表現をしたくなる(言わせたくなる)ことだってあるあずなのだ。しかし本作では、そこを強引に当初の意図通りに書こうとした不自然さが感じられる。
いや、しかしあれも、池澤夏樹の計算だったのかもしれないな。まだ「すばらしい・・・」を未読の方には申し訳ないが、前作であんなに仲がよかった夫婦は本作では離婚寸前である。といっても前作で妻・可南子のせりふが浮いていたから、実は自分にはあまり意外感がない。肩に力の入った、夫のやることなすこと全て先走って話す、妙にテンションの高い感じ。それが夫に対する必要以上のこだわり、依存とも見えたのだなあ。なので本作で夫が浮気した瞬間に妻の中で何かがポンとはじけてしまったようなのだが、通して読んでいると、逆にこの部分はとても自然だ。でも前作だけを読むと何か違和感が残るのだ。
実は「依存」は本作における重要なテーマでもある。夫婦間あるいは家族間の相互の依存による問題、すなわち前作では妻の夫に対する精神的依存、本作では離婚したときの経済問題がクローズアップされる一方で、現代経済における極端な分業による相互依存とそこからの脱却、すなわち自給自足経済のあり方みたいなものが同時並行で語られている。最終的には、依存する・しない、分業する・しないではなくて、それらを超越した精神的な自由を求めることが大事、というある脇役の生き方が紹介されることで、みんななんとなく幸せになるというのが結末だ。
ところで本筋とは関係ないが、相互に依存しない自給自足経済はそれだけみればあまり効率的ではない。でもその非効率さって、いざ外部からの供給が途絶えたときに自分でやっていけることに対することで、保険料を支払わないですむ分と相殺される。通常の分業をして自分が単品しか生産していないとき、実はすごく大きなリスクを採っているのだが、普段はそれには気づかない。そして供給が途絶えたとき初めてリスクの大きさに気づくのだ。堺屋太一の「油断」の世界ですね。
本作は、カタログ的にいろんな自給自足的生き方があることがわかる本なのだが、そのあまりにも意図的に配置されたプロットは小説として読む意味があるのか、最後までよくわからなかった。もしかすると、池澤氏のあの抑揚のない文体がそう思わせているのかもしれないが。それにしても、前作ではエコロジー的な側面は夫婦の相互依存とはほとんど絡めていなかったけれど、本作ではガラリと雰囲気が変わりました。連作なのにこんなにテーマの持ち方が違ってもいいんでしょうか。☆☆☆。
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