記憶は風化するものだ。

例えば30年前の今日、何があったかなんて覚えている人はなかなかいないだろう。でも確実に言えるのは、30年前も広島では慰霊式典が行われていたであろうこと。3月11日の午後2時46分にはいまだに黙とうする人がいるが、8月6日の午前8時15分に黙とうする人は、広島以外では今はたぶんほとんどいない。

これは何度もここで書いているが、自分が子供時代を過ごした山口県の岩国市は広島市から約50km。同級生の親が被爆者だったりした。小学生の時の社会見学先は原爆ドームと原爆資料館。原爆の閃光で石段に焼き付いた人の影とか、ひん曲がった一升瓶とか、炭化した人間の模型とかが強烈な印象に残っている。

岩国には米軍基地もあり、核兵器貯蔵疑惑もあったりして、戦争がすぐそこにあった。あのころはマジでヤバいと思っていた。光った瞬間に一瞬で灰になる恐怖。だから毎年この日のこの時間は心の中で黙とうしている。

昨日から高校野球が始まった。そういえば今年は例年より少し早い。何でそう思うかというと、試合中に8月15日を迎えると正午に必ず選手が黙とうするのだが、長崎の原爆の日や広島の原爆の日の黙とうを見たことが無いから。つまり高校野球は毎年長崎の原爆の日より後に始まっていたはず。

でも試合の間隔をあけるために今年から開会式が前倒しになり、長崎の原爆の日の黙とうが加わるようになったようだ。おかげで8月15日だけでなく8月9日も、高校野球を通じて少しでも記憶が風化せずに済む。今年は8月6日には黙とうはしたんだろうか。



「生産性が低い云々」という発言も、どうも若い世代はピンとこない人が多いようだ。発言への追随者まで出てきたのには驚いた。ひどいことを言っているという認識が無いようだ。

自分が子供のころは必ず学校の授業で人権に関する科目があった。差別についても散々教えられた。わざわざ差別があることを教えることがさらなる差別の引き金になるという意見もあったが、それでも差別に関する教育は続けられた。

現在の差別問題教育に関する実態をよく知らないのだが、こうしたマイノリティの存在自体を否定するような発言が出てくること自体が、人権教育が弱まってきたことを示していないだろうか。発言している当人は合理的に考えているつもりでも、それは経済合理性でしかない。

マイノリティの人は好きでマイノリティを選択しているわけではない。選びようがないからこそマイノリティなのだ。その人たちのアイデンティティを平等に認められない社会は、あらゆる社会的弱者に対して不寛容になる可能性がある。

この発言をしている議員だっていつかは老人になるし、もしかするとカラダが不自由になるかもしれない。その時に生産性が低いという理由で切り捨てられても構わないんだろうか。

経済的な観点からみても、人権擁護は安心して生産性をあげるための大前提になる社会の仕組みだ。それが軽視される社会で、効率性が優先されると大変なことになる。乗り物で言えば安全性が軽視されてスピードだけが優先されるようなものだ。

その発言の怖さが分かっているのだろうか。


2018年  原爆の日に思ったことでした。



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