チャンドラーの村上春樹版「ロンググッバイ」を読んだ。ハードボイルドの割には、主人公のマーロウが思っていた以上に感情的でいちいちシニカルなのに驚いた。もうちょっとクールな主人公を想像していたのだが。

さらに本のあとがきに村上春樹が小説家のアプローチ方法の違いについて書いている。さすがは村上春樹、あとがきだけで一冊の本になりそうな内容だ。その中で、小説家は何を直接的に描くものなのかという点について、こういうことを言っている。

多くの小説家は意図的に、あるいは無意識的に、自己意識について語ろうとする。あるいは様々な手法を用いて、自己意識と外界の関わり方を描こうとする。それがいわゆる「近代文学」の基本的な成り立ちである。我々は人間の自我の作動状況がどのように有効に文学的に表象されているかーー具象的にであれ抽象的にであれーーによって、その文学作品の価値を決定しようとする傾向を持っている。しかしチャンドラーはそうではない。文章的には極めて雄弁であるものの、人の意識を描こうというつもりは彼にはほとんどないようだ。

小説というものの発祥以来、登場人物の意識をいかに表現するかということは作家にとっての大きなテーマだった。これに対してチャンドラーは意識を直接表現しようとするのではなく、何が起こったかを淡々と書いていく、ということらしい。確かに「私は寂しさを覚えた」とか「怒りがつのった」みたいな表現はまったく無くただ何が見えたかとか何が聞こえたかという客観的事実(主人公の主観だが小説自体が一人称なので読み手からすれば客観的事実に見えると言えるだろう)が並んでいる。チャンドラー自身は小説表現についてこんなことも言っている。

チャンドラーは彼の考える物語の性質について、ある覚え書きの中にこのように書き記している。「もしあなたが、朝起きたときに腕が三本になっていた人間の物語を書くとすれば、その物語は腕が一本増えたためにどんなことが起こったか、というものでなくてはならない。腕が増えたことを正当化する必要はあなたにはない。それはすでに前提としてあるのだ」と。つまり腕が一本増えたために主人公がとる行為と、その行為が招聘するであろう別の行為との相関性の中に、腕が増えた理由も(自発的に)暗示されていくべきだというのが、チャンドラーの考え方なのである。

腕が三本・・・・。難しいのはもし最初から腕が三本あることが前提なのであれば、例えば両耳を抑えながら立小便をすることも可能なのだが、それをいきなり前置き無しに書かれたら面食らう読者が続出だろう。いくらなんでも読んだ瞬間に「ああ、これは主人公に腕が三本あるんだな!」とはならない。しかし多くの小説は読み進むにつれて背景が明らかになっていくという形式を取っているので、その中でそんな特殊な前提条件をいかに自然に、上で言うところの「自発的に」読み手に理解させるのかというところも作家の腕の見せどころではある。

チャンドラーが言っているのはハードボイルド小説の書き方ではなく一般的な小説の書き方を述べているのだが、ではためしに意識の表現を極力避けてランニングブログを書くとどうなるか。

42km近くを走り私は陸上競技場に戻ってきた。ゴールまでは残り300m。私の時計は2時間58分50秒を指していた。肺、それに足裏、ふくらはぎ、太腿、カラダのすべてが焼ける音がする。おそらくゴールまでたどり着いたらそこからは一歩も動けないだろう。もう時計は見ない。周りのランナーが激しく息を吐く音だけが響く。彼らも事情はまったく同じだ。しかもこの競争は先着順ではない。時間内にゴールに到達できるものには等しく褒美が渡される。

ゴールゲートの上のデジタル時計が2時間59分を表示しているのが目に入ってくる。なぜか秒の表示が見えない。ゴールゲート横では大会役員や観客が私たちに向けて何かを叫んでいるが何を言っているのかは聞こえない。脚を回す。グルグル回す。腕を振る。グルグル振る。汗が目に入る。足がゴールマットにかかる。そしてその瞬間に沿道の彼らの口からは大きなため息が漏れる。

すぐ横でトラックに四つん這いになって嗚咽するランナーの姿が目に入った。抱き合うランナーもいた。どうやらここには天国と地獄が共存しているようだ。係員の誘導に従い記録証発行エリアでに進むと、突然右脚のハムストリングが痙攣を始めた。私は立っていられなくなってそこに座り込んだ。雨上がりのグラウンドの冷たさがランパン越しに伝わってくる。私は座り込んだまま必死に脚のストレッチを始めた。今やゴールタイムよりもこの痛みから逃れることの方が重要だった。そして地獄からも。
チャンドラーの言うとおりに書いたらなんとなくハードボイルドっぽくなった。「オレは今天国と地獄のどっちにいるのか」とか「悔しさで私の胸はいっぱいになった」みたいにこの「私」の心の情景を書きたくなったが我慢。

ちなみに村上春樹はマーロウに「やれやれ」とは言わせていない。村上春樹は主人公を「僕」と書かなくなってから面白くなくなった。それは「やれやれ」と主人公が言わなくなったのと同じころだ。



数か月前に「これからはネットを検索しないでブログを書く」と表明した。そこでやりたかったことは、自分の頭の中にあることの純度を下げないこと。それが自分の意識のベースになっているのだから、自分の誤解も含めて頭の中にあるもので文章を構成する。その方が自分の意識がより伝わるのではないかと思った。

小説では書き手が語り手を作り出す。特に主語が一人称になっているとそのことが良く分かる。自分が言っているのは書き手の意識がどこから来るかの問題。チャンドラーが言っているのは語り手に何を語らせるのかの問題。もちろんブログでも語り手を作り出すことはできるので、オカマに語らせても良いのだが。

オレの説明の巧拙はともかく、村上春樹の小説についての解説は実に分かりやすいなと思った次第。ちなみに「ロンググッバイ」は 確かに登場人物たちの自我は直接には表現されていないが、彼ら彼女らの自我のうねりが実にダイナミックに楽しめる小説でした。そして失われた友情への「ロンググッバイ」。


本日の走行距離:12.0km
今月の走行距離:128.7km
本日の最低体重:61.7kg
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