毎年なにがしかこの日には書いているような気がするが、ちょっと踏み込み切れていないところがある。大きな被害は東北地方だったしそこで浦安の話を書いてもね、というところもある。でもそろそろ書いておかないと記憶が薄れるような気もするので。



地震が起きた瞬間は自分は当時の勤務先のオフィスにいた。最初に下から突き上げるような縦波がビクンと来てその後に微振動が続き、数十秒後に本震が来た。当時一緒に仕事をしていた人からはいまだに「キミ兄は最初の縦波で『これヤバい!』って叫んでましたよね」って言われる。普段の地震ではめったにない感じの縦波だったのだ。

オフィスは24階建てのビルの14階だったので、多分相当に揺れたのではないか。天井とか窓とかがギシギシいって揺れの時間も長かったし、いつビルがボキッと折れるかと思って生きた心地がしなかった。最初の揺れがおさまったとき、自分が腰に凄いチカラを入れていたことに気が付いてビックリした。腰の筋肉がオールアウトしていた。あれを「腰が抜ける」っていうんだろう。

過去の経験から電話がつながらなくなることが分かっていたので、揺れがおさまると同時に机の下から家に電話を掛けた。妻にはすぐにつながったが、家の周りが水浸しになっていたらしい。液状化の知識はあったがとっさに結びつかず、水道管でも破裂したのかくらいに思っていた。

その後、職場の他の人たちと情報収集とか今日の残務とか相談していたとき、一人の携帯電話のテレビ画像にあの衝撃の映像が流れてきた。それを見て、そういえば揺れている間に揺れの方向は東北だと思ったこととか、津波って大丈夫なのかって思ったことを思い出した。腰が抜けながらも割と冷静だったのだ。



自宅にはしばらく電話は通じなかったが夕方になってようやくつながった。様子を聞いてみると電気とガスは止まっていて水道だけは出るようだった。これからどう対応するのかを聞いたら何も考えてない、そのまま家にいるつもりだったという。

食べ物は、暖房は、どうするんだ、ってつい口調がきつくなった。当時息子2歳。そんな二人が家にぼーっといてどうするのか。胸が苦しくなってきた。1.5km離れた妻の実家にとりあえず避難する事になった。

電車も止まっていてそこから自宅に戻るには歩くしかなく、家族が孤立して家に取り残されているのに自分にはなんにもできないという無力感で一杯だった。そこからとりあえず歩いて自宅に向かい、妻子が避難している実家に着いたのが夜9時。家族の無事な顔を見て本当にほっとした。



今でも自分の中では、いざという時に自分のチカラでは家族を守り切れないかもしれないという無力感が漂い続けている。もう8年も経つがいまだにあの無力感から脱出できないでいる。自分の中の大震災の記憶です。

ちなみに妻トモコはそれ以降は防災意識が高まり、毎年持ち出し袋の点検にも余念がない。人間やればできる(笑)


にほんブログ村 その他スポーツブログ マラソンへ