(この記事は金曜日の夜に書いた予約投稿です)


オバマ大統領が広島を訪問した。
歴史的な出来事だと思う。


従来、アメリカは原爆投下に関して
「戦争を終わらせるためにやむをえなかった」
という姿勢をとり続けてきた。
そのために、ともすれば謝罪と受け止められかねない
広島や長崎への訪問は極力避けてきた。
先月、国務長官として初めてケリー氏が訪問したことは記憶に新しい。
これですら歴史的な出来事だった。

いまや原爆投下は、第二次大戦終結後の米ソのパワーバランスに
一定の影響を与えるためだったというのが定説だ。
核兵器をまだ持っていなかったソ連に対する威嚇射撃だったという説だ。
ソ連が対日宣戦布告する前に、米国は日本に原爆投下しておく必要があった。
日本の側も、原爆を落とされて戦争継続を断念したことは事実のようだが、
ソ連が参戦したらそれだけで終戦は確実に早まったはず。

いまある核拡散防止体制だって、
最初に使った米国の権利を守るための仕組みだ。
新しく核兵器を持とうとする国は徹底的に叩かれる。
本来は、核保有国は等しくたたかれるべきなのに。
かくも世の中はきれいごとに満ちている。




しかし今回のオバマ大統領の訪問では、
大統領の態度、発言内容、いずれをとっても、
被爆者に対する哀悼の意と慈愛に満ちていた。

記念公園でのスピーチの後には、高齢の被爆者をハグまでした。
スピーチでは、いかに家族の愛が大切か、
裏返せばいかに戦争は忌むべきものか、切々と訴えた。
テレビでその様子を見たオレは、不覚にも家族の前で涙してしまった。



原爆投下の是非をめぐる議論。
日本だって米兵を虐殺した、
戦後の日本の驚異的な復興、
日本とアメリカのパートナーシップ。

国と国としてはとっくに決着がついている。
被爆者の人たちもそれは十分理解している。頭では。
しかし個人として、家族を奪われ自らも傷付けられた。
その痛みは決して癒されることはない。
その人たちにとっては70年前のできごとであっても、
決して戦争は終わってはいないのだ。

しかし今回、米国大統領の立場にある人が、
直接広島を訪れ被爆者とも面会したことで、
多くの被爆者が「ようやく戦争が終わった」と漏らしたという。
これは米国の外交政策のお陰ではない。
オバマ氏個人の広島訪問によるものだ。
個人の悲しみは個人にしか癒せない。

米国ではまだまだ原爆肯定論が多い。
政治的には広島訪問に対してオバマ氏は多くの障害があっただろう。
日本にも、ただ訪問しただけでは不十分だという意見も多い。

しかし、こうした個人レベルでお互いの気持ちに寄り添う行為なしに、
いくら国家間で形式を整えたって空しいのだ。個人にとっては。
オバマ氏はそのことを理解している。
平和は政治だけではなしとげられない。



自分は広島に近い岩国市で育った。
周囲には親が被爆者という人もいた。
原爆資料館は岩国の小学校では定番の遠足ルートだ。
それに岩国には米軍基地もあり、
昭和の終わりごろには核兵器持ち込み疑惑もあった。

だから原爆の問題には相応に同時代性を感じている。
両親も戦中派だから空襲の記憶を何度も聞かされた。
子供心に、戦争っていうのは市民を巻き込むものだと思っていた。
だから戦争はしちゃいけないって単純に思っていた。



その自分が知っている広島のあの空気の中にアメリカの大統領が来た。
その実感からしても、今回のオバマ氏の訪問は歴史的だと思う。
歴史の教科書にはどう書かれるかはわからないが、
オバマ氏が広島に来てくれたことを、オレは忘れることはないだろう。


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オバマ氏のスピーチをよく読むと、核兵器だけでなく
ライフルだって虐殺の道具になるってさりげなくしのばせてある。
使えるチャンスは全部使えるすぐれた政治家でもある。