量は質を凌駕する

 ~ アウトドアと読書の日記

カテゴリ:●徒然 > 考えたこと

青葉の森リレマラがいよいよ来週末に迫ってきました。距離は2kmなので最低8分ではゴールしたい。ま、最近インターバルではその5分の1の距離をキロ3分半で10本走れているので、本当は限りなく7分に近い目標とすべきなんでしょうが。

ふと気になったので、こんなことをつぶやいてみた。
そしたら相互フォローのbirdtakaさんが反応してくれた。仮に1kmのベストが3:30ならば2kmはVDOTから3:42くらいになるそうです。どうやって計算したの?って聞いたら、VDOTのフォーミュラからグラフを作成して、それを変数v(速度)の多項式で近似した、当てはまり度を示すR二乗は99.6%・・・・だそうです(棒)

詳しくはツイートを追いかけてください(笑) なんでもVDOTのフォーミュラは入力したタイムを丸めてから表もしくは式に入れているのでグラフがデコボコするそうです。すげえな。



確か記憶では、1km×5のインターバルって5000mを速く走るためにやるんですよね。5本走れるペースで5000mも走れる、だったはず。同じ理屈だと、冒頭の話で400m×5を走れるペースで2000mも走れる?それは無理だなあ。

できたら本番までの間に1回1000mのタイムトライアルをやっておきたいのですがねえ。ま、ぶっつけ本番でも、最初3:45で入っとけば大丈夫な気はします。すると7分半。それでも自分としては結構速い。

ちなみにハーフで90分切るところでVDOT51、2000mは7分15秒。目標は高く。
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古河はなもものレポが終わった。再来週に佐倉はあるが、古河から2週間しかないのでそもそも記録を狙う大会ではない。どちらかというと県民の義務だ(笑) 

今シーズンはとにかく厳しいことが多かった。気持ちで負けたことはないと思っているが、カラダが思い通りに動かないことが多過ぎた。それで精神的にもメゲて練習できなくなるっている悪循環だった気がする。



自分は一応、毎月300km、年間3600kmを目標に日々走っている。とはいってもここ1年は体調不良もあって必ずしもそこまで走れない月も結構あるのだが、そのせいかどうかここ1年位はなかなかPBも更新できないでいる。

昨日久しぶりにスピード練習をやってみたら本当に気持ちよかったし我ながらよく頑張った。漫然と走っているつもりは無かったがメリハリも無くなっていたのかもしれない。

なんだかできないサラリーマンみたいだ。なんでもっと頑張らないんだと責められて、だってサボってるわけじゃないと逆切れしてみたりして。もちろん努力したからといって必ずしも結果が付いてくるわけではないことは分かってはいるのだが。

体調が悪いと、次に走ることを考えただけで憂鬱になる。するととりあえず距離をこなすことだけが目的になる。PB更新という目標にしがみつくだけで、何か効果的な練習をしようという気持ちにならなくなっていたのかもしれない。

昨日のインターバル走。今の自分に一番足りないのはこれだと思ったが、自分でやろうと思い至ったのならばもっと早く思いつきたかったな。だからやっぱり漫然とは走っていなかったがメリハリは無かった。今気づいて良かったと思うことにしよう。



motoさんのブログで、10年でフルマラソンは20分遅くなるって書かれていた。いやいや、そんなにあっさり加齢を肯定されるとあまりに救いが無い(笑) 

もちろん永遠にPBを更新し続けられるわけではないし今の走力を維持する事すら難しいんだろうけど、そもそもオレは潜在能力使い切ってるんだろうか。本当に適切な練習ができて今持っている力を100%発揮できているんだろうか。

加齢による走力ダウンを肯定することで、自分が潜在能力を出し切ることをあきらめてしまうことの方が心配だ。例えば今年の自分のように、何が原因か分からない時に加齢のせいにしてしまわないだろうか。10歳どころか1年で20分遅くなってるんだぜ(笑)

似たような話で以前、全力中年さんのブログで「カラダが固いほうが脚は速い」っていう内容の更新があったんだけど、あれも理論自体を否定するつもりはないんだけど、走力が伸びないのはカラダが柔らかいせいだって逃げる口実にオレはしてしまわないだろうか。特にオレはカラダが柔らかい。一か所を除いて(笑)

実際オレは35歳の時はどう頑張っても3時間35分より速くなれなかったのに、サブ3.5取ったのは50歳の時ですよ。それまでに加齢理論に触れていたらあそこで頑張れたかどうか。そういう理論から目を背けるつもりはないけど、なにをやるにも遅すぎるってことはないはずだ。ちなみにオレは第一子が生れたのは44歳の時だ(笑)


そして今シーズンはまだ1レースあるけど、飲むのに遅いってことは無いはずだから今日は飲む!(笑)
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今日は在宅勤務なのに残業してしまってランオフ。実は脚に結構筋肉痛が来ていて、仕事が終わった時に走る気が出なかった。2日連続は疲労が溜まるのか。



数週間前にパイロットの「月夜」というインクを買ったと書いた。
IMG_3662
これが凄く色がキレイで、まさに月夜。深い藍色で少しグレーが入っている感じ。

しかし、これが安いノートに書いているせいか滲むのだ。せっかく極細のペンを使っているのに、字が太くなって読みにくい。何よりせっかくペンで書いているのに気持ち悪い。

ペリカンのインクは粘度が高く滲みにくいという話を聞いたので、買ってみた。
これがまったく滲まない。それに極細じゃなくて細字のペン先で書いても、極細にパイロットのインクを入れてる時くらいに細く書ける。実に気持ちイイ。
img20190306_19355813
ちょっと傾きすぎ(笑) 上が細字のペンにいれたペリカンのBlue Black、下が極細のペンに入れた月夜。ほとんど太さが変わらない。色の違いも分かるでしょうか。

ちなみにこれ、スキャナーの性能が良いからなのか、紙を肉眼で見てもここまで違いは分からないです。解像度は400dpi。

両方に同じインクを入れるとこんな感じ。右が細字、左が極細。こうしてみるとやっぱりペリカンの方が目に優しい。月夜の方が色が枯れている。ここは好みだな。

20190301

で、最近毎日日記ともいえないような雑文をノートに書き散らしている。目的は字の練習なのだが、やはり考えていることを書くので、内容がなんとなく日記みたいになる。

つまり日記を書いたうえでブログを書いているわけだ。0次会やってから1次会に行くみたいな?あるいは自分で○○してから○○○に行く、みたいな?(笑)

これまで自分としてはブログは完全にアウトプットの作業だと思って毎日書いていた。これに対してランニングや読書はインプット。走らないとインプットが無いのでブログも書きにくい。

同じようにペンで文章を書くことはアウトプットだと思っていた。



ところが先々週くらいに調子がどん底の時、インプットが無い状態で毎日ブログを書いていたら、なんだか文章のバランスが変になってきた。いつもの調子と違う、筆が走り過ぎるというか、ついつい言葉とか内容が過剰になるというか。ああ、走るのをやめた人がダークになるっていうのはこれか、と思ったりして(笑)

その時に、いつものようにペンで文章を書いてみたのですよ。そうすると文章のバランスの変な感じが解消された。ダークにならずに済んだ(笑)。つまり、ペンで字を書くという行為は、単なるアウトプットではなくて、手を使って視覚でフィードバックされることにより、インプットの役割もあるのではないか。

そういえば仕事でも考えがまとまらない時に、ペンで紙に書くと頭の中が整理されたりしていた。あれと同じか。

そうなれば、ペンで書くという行為は0次会ではなくて、1次会のまえにジョギングしておいしい酒を飲む準備をしているのと同じということになる。ペンで書いても他の人には伝わらないですからね。



今や自分の中では継続的にアウトプットするのが習慣化しているのだが、もし突然インプットを止めたらどんな感じのアウトプットになるのか。

私の好きな文筆家で山口瞳という人がいて既に故人だが、昔サントリーのCMで「トリスを飲んでハワイに行こう」というコピーを書いて有名になった人だ。

この人が「男性自身」というエッセイをずーっと週刊新潮に連載していた。いや、週刊文春だったかな? ほぼ毎日書いているものを毎週週刊誌に上げてくるわけです。よって彼の毎日の生活もよく分かるのだが、この人のインプットは競馬と酒しかない。たまに絵を描く。それに旅行。

そんな単調な毎日なのに、彼のエッセイは本当に面白かった。あれはきっとそれ以前のインプットが凄く多かったんだろうな。といっても思い出話を書くわけではなく、過去の経験が間接的に毎日のできごとに反映されているというか。

あのくらいだとインプットが無くてもアウトプットが面白い。そこまで達すれば、ですが。


本日の走行距離:0.0km
今月の走行距離:41.2km
本日の最低体重:60.9kg
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最近JR東日本が、エスカレーターで歩かないキャンペーンを始めたようで、そこかしこにポスターや看板が貼ってある。しかし貼る以上のことをする気はなさそう。

実際エスカレーターって鉄製の階段が流れているわけで、隙間にカラダを挟まれるリスクもさることながら、転んだらあの角の部分は刃物並みの切れ味を示すはずで相当に危険だ。昔キムタク主演のアイスホッケーのドラマでも、チームメイトがエスカレーターで突き飛ばされて大量出血の大けがする描写があったな。

しかしそんなせっかくのJR東日本の思いやりなんだが、もし自分があの看板通りにエスカレーターの右側に立ち止まって乗ったりすると、多分後ろから来た人に舌打ちされたり、足を踏み鳴らされたり、挙句には「どいてくれ」とか言われたりするのは目に見えている。そして、後ろから来る人は毎日別な人なので、だんだんに教育されてくれるには相手が多すぎる。

あの看板を貼ろうと思った人は、そういう事態を想像しているんだろうか。

せめてエスカレーターの乗り口に人を1人立てて、「はい、歩かないでくださーい!」「はい、そこの人!立ち止まって下さい!危険ですよ!」とか声をかけてくれるくらいのことがないと、自分のリスクで立ち止まる流れを作ろうとは思わないなあ。

そうはいってもエスカレーターを歩いたり走ったりするのが危険なことは承知しているので、せめてもの行為として歩いたり走ったりすることを自分には禁じている。せめてもの。



以前こんなことを書いた。
要約すると株価は利益を分子にするPERよりも、配当額と自社株買い額を分子にした指標で評価されるべきで、それを労働者が購入すれば世の中には資本家と経営者しかいなくなる、そうすれば企業が支配している政治も庶民の手に取り返せる、みたいなお話。

この話自体は置いとくとして、日本ってポリティカルアパシーとか言うじゃないですか。国民が政治に対して無関心。でも自営業の人たちとか企業経営者の人たちは政権の行方が自分たちの財布を直撃するから凄く深く関心を持っている。

一方でサラリーマンは、政権が変わろうがなにしようが自分に直接影響することなんてあまりない。特に国政はそうでしょう。民主党が政権を獲った時、なにか生活が変わっただろうか。そんなことよりも次の異動で自分の上司が誰になるか、自分の給料が増えるのか減るのかの方がはるかに重要だ。だから政治になんて、というか選挙になんて関心を持ちようがないんだろう。

偏見を承知で言えば人材は企業に集中している。これは戦後長らく日本が日米安保条約の庇護のもとで安全を享受してきたからだろう。政治家が頑張る代わりに企業が頑張って稼いできた。違う意味での外国との戦いもしなければならなかった。企業は戦える優秀な人材を求めるし優秀な人材もそういった環境を選ぶ。結果、政治家は不人気な職業になったということではないだろうか。

少子高齢化対策よりも前に、政治家職に人材を呼び寄せるような施策が必要なんじゃないか。例えば政界と財界(この呼び方も古い)の垣根をもっと低くして、政治家から経営者に戻る道を広げるのも一つかも。今の政治家の職業イメージでは候補者の成り手は少ないんだろうなと思う。政党の候補者選考システムが、とか言う以前の問題じゃないだろうか。この話がなぜ盛り上がらないのかが不思議。

企業経営者の側でも、自分の会社や経済については雄弁に語るのに政治について語る人があまりに少ないのも不思議。経営者が「日本を変えたい!」とか言うと変な目で見られる空気もあるんだけど。あなた政治に興味あるんですか、みたいな。そういえばトランプって企業経営者だったな(笑) ま、米国では珍しいことではないみたいですが。

エスカレーターも日本の社会も、最初に流れを変える人は多分損な役回りなんだろう。



ふと思ったと言いながら結構以前からずっと思っていたりする。ランオフすると余計なことを考えるからいかんですな(笑)



一昨日の記事で国枝選手のことを書いたうえで、大坂なおみ選手は日本人女子初の世界ランク1位ではないかと書いたのだが、同じく車いすテニスで上地結衣選手がすでに2014年にランキング1位を獲得していたそうです。大変失礼いたしました。この話はまた今度。


本日の走行距離:0.0km
今月の走行距離:318.8km
本日の最低体重:61.3kg
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チャンドラーの村上春樹版「ロンググッバイ」を読んだ。ハードボイルドの割には、主人公のマーロウが思っていた以上に感情的でいちいちシニカルなのに驚いた。もうちょっとクールな主人公を想像していたのだが。

さらに本のあとがきに村上春樹が小説家のアプローチ方法の違いについて書いている。さすがは村上春樹、あとがきだけで一冊の本になりそうな内容だ。その中で、小説家は何を直接的に描くものなのかという点について、こういうことを言っている。

多くの小説家は意図的に、あるいは無意識的に、自己意識について語ろうとする。あるいは様々な手法を用いて、自己意識と外界の関わり方を描こうとする。それがいわゆる「近代文学」の基本的な成り立ちである。我々は人間の自我の作動状況がどのように有効に文学的に表象されているかーー具象的にであれ抽象的にであれーーによって、その文学作品の価値を決定しようとする傾向を持っている。しかしチャンドラーはそうではない。文章的には極めて雄弁であるものの、人の意識を描こうというつもりは彼にはほとんどないようだ。

小説というものの発祥以来、登場人物の意識をいかに表現するかということは作家にとっての大きなテーマだった。これに対してチャンドラーは意識を直接表現しようとするのではなく、何が起こったかを淡々と書いていく、ということらしい。確かに「私は寂しさを覚えた」とか「怒りがつのった」みたいな表現はまったく無くただ何が見えたかとか何が聞こえたかという客観的事実(主人公の主観だが小説自体が一人称なので読み手からすれば客観的事実に見えると言えるだろう)が並んでいる。チャンドラー自身は小説表現についてこんなことも言っている。

チャンドラーは彼の考える物語の性質について、ある覚え書きの中にこのように書き記している。「もしあなたが、朝起きたときに腕が三本になっていた人間の物語を書くとすれば、その物語は腕が一本増えたためにどんなことが起こったか、というものでなくてはならない。腕が増えたことを正当化する必要はあなたにはない。それはすでに前提としてあるのだ」と。つまり腕が一本増えたために主人公がとる行為と、その行為が招聘するであろう別の行為との相関性の中に、腕が増えた理由も(自発的に)暗示されていくべきだというのが、チャンドラーの考え方なのである。

腕が三本・・・・。難しいのはもし最初から腕が三本あることが前提なのであれば、例えば両耳を抑えながら立小便をすることも可能なのだが、それをいきなり前置き無しに書かれたら面食らう読者が続出だろう。いくらなんでも読んだ瞬間に「ああ、これは主人公に腕が三本あるんだな!」とはならない。しかし多くの小説は読み進むにつれて背景が明らかになっていくという形式を取っているので、その中でそんな特殊な前提条件をいかに自然に、上で言うところの「自発的に」読み手に理解させるのかというところも作家の腕の見せどころではある。

チャンドラーが言っているのはハードボイルド小説の書き方ではなく一般的な小説の書き方を述べているのだが、ではためしに意識の表現を極力避けてランニングブログを書くとどうなるか。

42km近くを走り私は陸上競技場に戻ってきた。ゴールまでは残り300m。私の時計は2時間58分50秒を指していた。肺、それに足裏、ふくらはぎ、太腿、カラダのすべてが焼ける音がする。おそらくゴールまでたどり着いたらそこからは一歩も動けないだろう。もう時計は見ない。周りのランナーが激しく息を吐く音だけが響く。彼らも事情はまったく同じだ。しかもこの競争は先着順ではない。時間内にゴールに到達できるものには等しく褒美が渡される。

ゴールゲートの上のデジタル時計が2時間59分を表示しているのが目に入ってくる。なぜか秒の表示が見えない。ゴールゲート横では大会役員や観客が私たちに向けて何かを叫んでいるが何を言っているのかは聞こえない。脚を回す。グルグル回す。腕を振る。グルグル振る。汗が目に入る。足がゴールマットにかかる。そしてその瞬間に沿道の彼らの口からは大きなため息が漏れる。

すぐ横でトラックに四つん這いになって嗚咽するランナーの姿が目に入った。抱き合うランナーもいた。どうやらここには天国と地獄が共存しているようだ。係員の誘導に従い記録証発行エリアでに進むと、突然右脚のハムストリングが痙攣を始めた。私は立っていられなくなってそこに座り込んだ。雨上がりのグラウンドの冷たさがランパン越しに伝わってくる。私は座り込んだまま必死に脚のストレッチを始めた。今やゴールタイムよりもこの痛みから逃れることの方が重要だった。そして地獄からも。
チャンドラーの言うとおりに書いたらなんとなくハードボイルドっぽくなった。「オレは今天国と地獄のどっちにいるのか」とか「悔しさで私の胸はいっぱいになった」みたいにこの「私」の心の情景を書きたくなったが我慢。

ちなみに村上春樹はマーロウに「やれやれ」とは言わせていない。村上春樹は主人公を「僕」と書かなくなってから面白くなくなった。それは「やれやれ」と主人公が言わなくなったのと同じころだ。



数か月前に「これからはネットを検索しないでブログを書く」と表明した。そこでやりたかったことは、自分の頭の中にあることの純度を下げないこと。それが自分の意識のベースになっているのだから、自分の誤解も含めて頭の中にあるもので文章を構成する。その方が自分の意識がより伝わるのではないかと思った。

小説では書き手が語り手を作り出す。特に主語が一人称になっているとそのことが良く分かる。自分が言っているのは書き手の意識がどこから来るかの問題。チャンドラーが言っているのは語り手に何を語らせるのかの問題。もちろんブログでも語り手を作り出すことはできるので、オカマに語らせても良いのだが。

オレの説明の巧拙はともかく、村上春樹の小説についての解説は実に分かりやすいなと思った次第。ちなみに「ロンググッバイ」は 確かに登場人物たちの自我は直接には表現されていないが、彼ら彼女らの自我のうねりが実にダイナミックに楽しめる小説でした。そして失われた友情への「ロンググッバイ」。


本日の走行距離:12.0km
今月の走行距離:128.7km
本日の最低体重:61.7kg
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