量は質を凌駕する

 ~ アウトドアと読書の日記

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4月に逝去した三國連太郎氏。プライベートで20年の親交がある著者が、稀代の俳優の知られざる素顔を綴るエッセイ集



別れの何が悲しいのですかと、三國連太郎は言った別れの何が悲しいのですかと、三國連太郎は言った
(2013/10/22)
宇都宮 直子

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はっきり言って、微妙な作品である。私は書評を書く時にできるだけ「微妙」という言葉は避けているつもりだ。本当は認めていないけどそうは言いませんよ、というズルさが滲むからである。しかしこの作品にはこの言葉を使うことを許して欲しい。

私は俳優の佐藤浩市が好きだ。それもかなり好きだ。なのでその父親である三國連太郎も相当関心がある。三國連太郎の若い頃の写真を見ると、いやいや佐藤浩市の方がかっこいいだろう、とか思っちゃうのだ。でも同時に三國連太郎のこともかっこいいと思ってる。そんなわけで三國連太郎の本は何冊か読んでいる。

三國連太郎は晩年の役柄からは想像がつかないくらい無頼の人だ。本作でも、そんな三國のどうしようもない暗さや、生に対する渇望が垣間見える。よくかけている本だとも思う。

しかし読み始めてからしまったと思った。この本は三國連太郎の本ではあるが、同時に宇津宮直子の本だ。宇津宮は、有名な太地喜和子と三國連太郎の関係について、こう書いている。

>だけど、ふたりは似ていると思う。ガソリンをぶっかけたような日々が「ほんもの」だったのもわかる気がする。

ここまではいい。しかし次が微妙だ。

>でも、私はだめだ。燃え尽きてしまう恋は、しない。おそらく、できない。

正直言って宇津宮直子がどんな人か知らないし、このタイトルで宇津宮直子の恋愛観を期待する人もいないだろう。三國連太郎の晩年は本作から存分に味わえるのだが、同時に宇津宮直子の感性、エッセイのセンスも堪能しないとならない。そしてそのセンスはかなり乙女チックだ。少なくとも三國連太郎を語るには「微妙」だ。三國連太郎についての描写は大いに興味をそそられるのだが、このセンスは… 間を取って☆☆☆。

年末なので、今年を振り返ったり来年を展望したりで忙しい(笑) 今年買ったグッズとかもそのうち振り返りますのでお楽しみに♪
そんな中、本来映画は本Blogの対象外であるが、今回は特別♪


遠い空の向こうに [DVD]遠い空の向こうに [DVD]
(2012/05/09)
ジェイク・ギレンホール、クリス・クーパー 他

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先日読んだ「ロケットボーイズ」が映画化されていたので、思わずポチってしまった。邦題は「遠い空の向こうに」、原題は「October Sky」。ROCKET BOYのアナグラム(並べ替え)になってると聞いたが、字数が合わない。? と思ったらROCKET BOYSでした(笑)

それはさておきなんでわざわざDVDが観たかったのかというと、本で青い空に消えていくロケットのシーンが余りに良かったので、映像で観たくなったからなのだ。そして実際に期待に違わぬ出来でした。

最初の失敗するシーンでは、物凄い勢いでそばで見ている人に向かってくる。成功するシーンでは、曇り空にも関わらずロケットの飛ぶ方向に窓のように青空が覗き、そこにロケットが突き刺さる。そしてラストシーン。山の中の発射場で、ずっと不仲だった主人公の父親が代わりに発射ボタンを押すと、ロケットがみるみる舞い上がる。遠く離れた炭鉱の町からも、山の向こうからロケットが舞い上がるのが見え、登場人物たちがその姿を瞼に焼き付ける。ロケットは青空を切り裂いて虚空へと向かっていく。

父親役のクリス・クーパーの無慈悲な感じがとても良い。泣けます。文句なし。

コンドリーザ・ライスは本書においてイラン、北朝鮮、リビアなどの情勢が混沌の中に陥っていくプロセスの舞台裏を明かしている。同時に、危機管理の調整役としての自分の役割についても語り、緊迫した関係の国々を交渉のテーブルにつかせるために日夜奮闘した日々を振り返る。まるで、世界の機密外交の交渉の現場を体感できるような臨場感にあふれている。

ライス回顧録 ホワイトハウス 激動の2920日ライス回顧録 ホワイトハウス 激動の2920日
(2013/07/26)
コンドリーザ・ライス

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ブッシュ大統領の二期にわたる政権の間に国家安全保障担当大統領補佐官と国務長官を歴任したコンドリーザ・ライス氏自身の手によるブッシュ政権の記録。

ブッシュ政権には、傍から見てもなんでこんな人を入れたんだろうという閣僚が何人かいる。チェイニー副大統領、ラムズフェルド国防長官、ウォルフォウィッツ国防副長官などがそうだ。ちなみにYoshi-Tは、ブッシュ本人、チェイニー、ラムズフェルドの他、ポールソン財務長官、パウエル国務長官のこの期間の記録は読んだ。

その中で、それなりの存在感を発揮していたライス長官なのだが、見た感じの印象や華やかな経歴、過去の発言などから、もう少しこわもての人かと思っていた。時間がないので斜め読みしてしまったが、自ら流れを作る人というよりは、他人が作った流れにうまく乗っていく人のようだ。よく言えば、周囲をじっと観察して、最善と思えるタイミングでアドバイスをするタイプ。

ただ本書を読んでも、軍事や他国の歴史ではピント外れな記述がたまにある。実務の世界ではなかなかイニシアティブを取りにくかっただろう。歴戦のラムズフェルドなどに言わせれば「この小娘が!」ってとこではないか。

この本は、ライス氏本人の事跡というよりは、ブッシュ政権の8年間の生き証人としてのライス氏の証言を読む本としての価値がある。そう思って読むと、逆にライス氏の観察眼の鋭さと記憶力の確かさに驚かされる。ブッシュ政権のなかでこいつが一番の悪人、と私が思ったチェイニー副大統領について、かなりの証言をしている。チェイニーはかなり脇が固いので、こんな姿はブッシュ氏本人とライス氏くらいにしか見られていないだろう。

>政府で長期にわたり執拗にサダム打倒の必要性を訴えていた人々の間では、短期間だが、ある種のうぬぼれが蔓延していた。その象徴とも言うべき人物が副大統領だった。

その前のクリントン政権の時よりも、ブッシュの閣僚が書いた回顧録の数の方が格段に多いのではないか。それだけ物議を醸した政権ということか。☆☆☆☆。

小さな炭坑町で、夜空に輝く人工衛星スプートニクを見上げ、落ちこぼれ高校生は考えた-そうだ、ぼくらもロケットをつくろう! 仲間と共にロケット作りに打ち込んだ青春時代を綴る。映画「遠い空の向こうに」原作。

ロケットボーイズ〈上〉ロケットボーイズ〈上〉
(1999/12)
ホーマー ヒッカム・ジュニア

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楽しい本である。NASAを定年退官した著者が高校時代に熱中したロケット作りを振り返った実話。父親との確執、同級生との初恋、炭坑の浮沈など、甘酸っぱいエピソードも交えながら、合計31本のロケットを打ち上げる。

炭坑の技術者も協力してのロケット作りなのでかなり本格的で、かのフォン・ブラウンもその精巧さに舌を巻いたというレベルのできだったようだ。驚くべきはその飛距離。31号はなんと高度1万メートルに達したらしい。このシーンは圧巻だ。

いやいや、1万メートルですよ。しかも全長2メートルのロケットといえば、サイドワインダーミサイルとあまり変わらない。燃料が残っている状態で旅客機にでも当たればヤバいよ、マジで(°Д°)
到達高度が千メートルを越えた辺りから、そっちが気になってしょうがなかった(笑)

本作はほのぼのした青春譚に位置付けられているようだが、さすがは銃撃ち放題のアメリカ、高校生が兵器まがいのものを作っても町ぐるみで盛り上がれる。

でも物語自体は本当に面白い。父親からの自立、夢を叶える、仲間との友情。いろんな要素が入り交じって、読みごたえがありました。ラストはジーンと来ます。息子に読ませたい。映画も面白いらしい。☆☆☆☆。

ユダヤ人精神分析学者がみずからのナチス強制収容所体験をつづった本書は、わが国でも1956年の初版以来、すでに古典として読みつがれている。著者は悪名高いアウシュビッツとその支所に収容されるが、想像も及ばぬ苛酷な環境を生き抜き、ついに解放される。家族は収容所で命を落とし、たった1人残されての生還だったという。

このような経験は、残念ながらあの時代と地域ではけっして珍しいものではない。収容所の体験記も、大戦後には数多く発表されている。その中にあって、なぜ本書が半世紀以上を経て、なお生命を保っているのだろうか。今回はじめて手にした読者は、深い詠嘆とともにその理由を感得するはずである。

著者は学者らしい観察眼で、極限におかれた人々の心理状態を分析する。なぜ監督官たちは人間を虫けらのように扱って平気でいられるのか、被収容者たちはどうやって精神の平衡を保ち、または崩壊させてゆくのか。こうした問いを突きつめてゆくうち、著者の思索は人間存在そのものにまで及ぶ。というよりも、むしろ人間を解き明かすために収容所という舞台を借りているとさえ思えるほど、その洞察は深遠にして哲学的である。「生きることからなにを期待するかではなく、……生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題」というような忘れがたい一節が、新しくみずみずしい日本語となって、随所に光をおびている。本書の読後感は一手記のそれではなく、すぐれた文学や哲学書のものであろう。

夜と霧 新版夜と霧 新版
(2002/11/06)
ヴィクトール・E・フランクル

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恥ずかしながら、この歳にして本書を初めて読んだ。正直もう少し残虐な描写があるのかと思っていたが、そうではなく、むしろ絶滅収容所という環境において人がいかに精神的に追い詰められていくかという内面の描写であり、逆にその分非常に残酷な内容である。著者は精神科医であり、その視点から被収容者の収容時のショック、収容所生活の心理、収容所から解放されたときの心理について描写している。

ここに収容される人は、衣服や装飾品だけでなく、それまでの社会での地位や誇り、あるいは感情までもすべて剥ぎ取られ、収容ショック状態ともいえる状態に陥る。

>アウシュヴィッツでは、収容ショック状態にとどまっている被収容者は、死をまったく恐れなかった。収容されて数日で、ガス室はおぞましいものでもなんでもなくなった。彼の眼に、それはただ自殺する手間を省いてくれるものとしか映らなくなるのだ。

現在から過去を振り返れば、そういう過酷な状況がいつ終わるのか、いつが終わり間近の時期だったのかは明らかなのだが、当然その当時その状況に置かれた人々は知る由も無い。極限の状況自体も過酷だが、その状況がいつ終わるのか分からない状況では、人は希望を持ちようも無く、より過酷な状況だといえる。

そのような状況で人々がなにを支えにしていたか、こここそが本書のもっとも価値のある箇所であろう。たとえば著者は、妻との幸せだった記憶、あるいはその同じ時に妻が幸せでいるという確信、いつかこの状況が終わって妻と幸福な時間を過ごすという希望、そういったものがもっとも心の支えとなったという。逆に、おいしいものを腹いっぱい食べたり暖かな寝床で心地よく眠るという空想は、そうではない現実を眼にして打ち砕かれることにより、それ以前よりも激しい絶望に陥ったという。

>具体的な運命が人間を苦しめるなら、人はこの苦しみを責務と、たった一度だけ課される責務としなければならないだろう。人間は苦しみと向きあい、この苦しみに満ちた運命とともに全宇宙にたった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない。だれもその人から苦しみを取り除くことはできない。だれもその人の身代りになって苦しみをとことん苦しむことはできない。この運命を引き当てたその人自身がこの苦しみを引きうけることに、ふたつとないなにかをなしとげるたった一度の可能性はあるのだ。

特に印象的なのは本書の終わりに近い箇所で、著者が収容されている人々の前でいかにこの現実を乗り切るか、説くシーンだ。著者は、ある人がこの過酷な状況に陥ったときに「自分が過酷な状況に陥る分だけ、愛する人を幸せにする」という契約を神と結んだことにより、その人にとって犠牲になることの意味ができた、という話をした。そうすると、その直前一週間に絶えなかった自死に至る人がぴたりといなくなったという。

煎じつめて言えば、そのような状況になった時こそ、普段いかにちゃんと生きているか、愛すべき人や物をちゃんと愛しているかが問われるということだろうか。

こういう極限に自らも置かれたからこそ、人間がいかに苦しみに対処していくか、純粋な描写になっているのだという気がする。現代社会でも、たとえばサラリーマンでも、いつ果てるともしれぬ希望をもてない日々を過ごしている人はあまたいるはずである。真の成功者であっても、かならずや心のどこかに苦しみを抱えているはずだ。そういった現代の我々にこそ読まれるべき本なのかもしれない。☆☆☆☆☆。

通常は自分は「~らしい」とか「~のようだ」といった伝聞であることを前提にした書き方を避けて、できるだけ自分で咀嚼した言葉で書くように心がけているのだが、今回ばかりは文章があまりに研ぎ澄まされていて、伝聞調にならざるをえなかった。力不足です。

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