久々に読書記録を書きたくなる本を読んだのであげとく。
ここでいう意識」とは、いわゆる倒れている人に「意識がない」とか「意識はある」とかいうときの「意識」。人間の体は、意識の無い状態でも、外部からの刺激に反応するのだが、意識がある状態での反応とは反応が異なる。
電子機器で「フォトダイオード」というものがあるらしい。電流を通しておいて、光を当てると抵抗が変化して電流も変化する、という素子だ。生物の祖先にも、光を当てると反応する、という進化の過程があったらしい。今も微生物などはこのレベルだ。
意識のスタートは、過去の記憶と比較しての相対的な評価にあるらしい。例えば熱い物に触れて「これは熱い」とか逆に「温かい」とか。温度に関する記憶と照らし合わせて評価を行う。この時に、記憶を司る大脳との間で情報の交換が行われる。これが意識の始まりらしい。
情報工学の世界では、「φ」(ファイ)という単位があって、ある装置内で発生する情報量の複雑さを示すらしい。意識のある状態と無い状態では、φの大きさが全く異なる。このおかげで、火傷する温度のものに触れそうになると、「これは熱い!」という意識が生まれて、手を遠ざけるという動作につながる。
さらに脳のすごい仕組み。
USJにバック・トゥ・ザ・フューチャーというアトラクションがある。大きな画面にデロリアンの運転席からの映像が映し出されると同時に、座っている椅子が小刻みに揺れることで、仮想現実を体験できる。あれなどは、まさに人間の意識による情報統合を利用した仕掛けだ。
下に向かって落ちていく映像と、下に向かってぐらっと揺れる椅子のおかげで、我々は極めて安全に、垂直落下を疑似体験することができる。映像だけ見ても、あるいは椅子だけが揺れても、あの体験はできない。双方が同時に起きて、それを我々が脳の中で一つの情報として統合することで、落ちていると感じることができる。脳が情報を統合する役割を果たしてくれることで、自分が落ちているということを意識することができるわけだ。
この本では、このような意識の発生を脳に磁気を当ててその反応を計測することで、具体的なデータとして取り出す経緯なども説明している。興味深いものを見つけて意識が活性化しているとき、レム睡眠で夢を見ているとき、ノンレム睡眠で無意識になっているとき。
この結果、植物状態にある人と、実は意識はあるのだが体が動かせないので外からはそのことがわからない人の区別がつけられるようになったという。
自分がなにか言葉を発し、それに対する他人の反応をとらえる、というのも意識のなせる業だろう。他人の反応についての過去の記憶があるから、今回の反応について意識することができる。この積み重ねで他人との共感性が育つ。
とか考えていて、あー、自分はこの訓練が足りないな、と思った。嫌がられているのか、喜ばれているのか、あまりとらえられてない気が。これが空気の読めなさにつながっている。
ま、今さら遅いんだが(笑
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