量は質を凌駕する

 ~ アウトドアと読書の日記

カテゴリ: >ま行

ポケモンGO批判で炎上したやくみつる。
批判したきっかけは、タクシーの運転手に「最近丸くなった?」と言われ、
あえて辛口のことを言おうとしたかららしい。

氏のこれまでの辛口コメントは、心の中から湧き出てきたから支持されてたはず。
わざわざ作って乱暴に言っても、そりゃあ聞く人には響かないよねえ。
ビジネスでアウトロー装ってもねえ。


☆☆

読書感想のことを「ドッカン」と呼ぶらしい。
久々にオレもドッカンを上げてみる。

今回は村上春樹「職業としての小説家」。
そういえば村上春樹、一時ブログを立ち上げて読者に返コメしたりしてたな。
「小説は練習すればうまく書けますか?」と質問されて、
「才能がないと無理」って返答して話題になっていたあれだ。
職業としての小説家 (Switch library)
村上春樹
スイッチパブリッシング
2015-09-10



自分のブログへの接し方に通じるところもあったので、
メモを取りながら読んだ。結構ポイントがありました。
書いてあることは、彼の小説のようにユニークな内容ではなく、
文章を作るうえでの基本的なことだった。
これで何が言いたいわけではないが、記録として書いておく。



【オリジナリティとは】
村上春樹の定義によれば
 ①新鮮さがあること。
 ②その中身を自己変革していけること。作りっぱなしはだめ。
 ③将来の後進が真似するようなスタンダードになること。

①は当然として、②も大いにうなずける。これがないとただの一発屋だし。
③はむつかしい。これはただのオリジナリティじゃなく「優れたオリジナリティ」だよね。
いくら新しいものを生み出していても、ただの借りものだと②すらむつかしいけど。

これはブログでも、ただホチキス止めしたみたいなのをたまに見かけますね。
良いとか悪いとかではないんだが、オリジナリティは感じないですね。
もちろん、意図してスクラップブック的に作ってる場合もありますけど。


【エッセイに使ったネタは小説に使わない】
これは、小説に取り組んでいるときはほかの仕事はやらないという趣旨。
でないと、せっかくため込んできたネタをうっかりエッセイに使ってしまったりするから。
自分も、ツイッターで使ったネタはブログでは使わないとか、気を付けてはいる。
ブログを読んでいる人が必ずツイッターのフォロワーとは限らないが、
ツイッターのフォロワーはほぼ全員ブログを読んでいる。
同じネタでも切り口が違えばいいんですけど。


【小説を書くとはそぎ落としていく作業】
最初の小説「風の歌を聴け」はこうやって作ったらしい。
誰の作風の影響も受けない、自分独自の文体を構築することを心掛けたとのこと。
確かに夾雑物が多いと、正しく伝わる可能性よりも、誤解される可能性が高まるかも。
誤解されそうな表現をどんどん削っていくっていう意味なら理解できる。


【音楽を奏でるように小説を書く】
スタイルなどの基礎ができると、あとは流れるように書いていく。
途中で寸断させたりせず、できるだけ連続して書いていく。
自分が書くときも、最初から最後まで一気に流れた時のほうが後で読みやすい。
別の時間に書いたものを貼り合わせると、意味不明の文章が出来上がる。


【小説の語り口が一人称から三人称に変わった】
これは違う意味で眼から鱗。確かに「ノルウェイの森」あたりまでは
主語が「僕」だったが、いつの頃からか三人称になっていった。
村上春樹はそれを「小説家として成長した」っていうんだけど、
オレが村上春樹を読まなくなったのも多分その頃。
しかも自分とは違う世代の主人公を選ぶようにしたらしい。
あの「僕」が帯びる空気感が良かったんだけどなあ。


【読み手が作家を作る】
これまで出してきた作品に対する読者の反応が今後の作品を方向付けるらしい。
村上春樹レベルで、そんなに正直になっていいの?って感じ。
書きたいものを書きながら読者の反応にもこたえていくって大変な作業。
逆にそれがないと、道標なき放浪になってしまうということか。


その他、小説を一本書くまでの作業工程とかは大いに興味をひかれた。
まだの人、ファンでない人も読んだ方がいいと思います。
いまさらオレが言うのもあれですが。

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少年は、十四歳で家出し、物乞いや盗みで生計を立て各地を放浪していた。時はアメリカの開拓時代。あらゆる人種と言語が入り乱れ、荒野は暴力と野蛮と堕落に支配されていた。行くあてのない旅の末、少年は、以前より見知っていた「判事」と呼ばれる二メートル超の巨漢の誘いで、グラントン大尉率いるインディアン討伐隊に加わった。哲学、科学、外国語に精通する一方で、何の躊躇もなく罪なき人々を殺していくこの奇怪な判事との再会により、少年の運命は残酷の極みに呑み込まれるのだった―。『ニューヨーク・タイムズ』紙上で、著名作家の投票によるベスト・アメリカン・ノヴェルズ(2006‐1981)に選出。少年と不法戦士たちの旅路を冷徹な筆致で綴る、巨匠の代表作。

ブラッド・メリディアンブラッド・メリディアン
(2009/12/18)
コーマック・マッカーシー

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以前バルガス=リョサの「世界終末戦争」やガルシア=マルケスの「百年の孤独」を読んで、あの寂寞とした世界に触れたとき、こんな残虐な物語ではあるが、多分世界のいろんな国で同じような物語があるんだろうな、と思った。そして今回この作品を読んで、やはりアメリカにも同じ物語があった、と思った。これもまた、どこにも行き場のない殺戮と放浪の叙事詩だ。

解説ではここに登場する「判事」がコンラッドの「闇の奥」のクルツになぞらえられている。クルツは「地獄の黙示録」のカーツ大佐のモデルだ。この作品の発表が1985年だから、マッカーシーがカーツ大佐をモデルにして判事を書いた可能性は十分ある。坊主頭、博識。地獄の黙示録でカーツ大佐の帝国のあのショッキングなシーンを思い浮かべると、アメリカ人がインディアンやメキシコ人を殺戮するこの物語に驚くほど一致する。

マッカーシーの三部作でも登場する南の楽園メキシコ。本作でも判事率いる首狩り隊はメキシコの大地を駆け巡る。しかしそれは三部作とは異なり、明らかな侵略者としてこの地を黙示録に変えたというわけだ。150年前のこの歴史があって、50年前の三部作がある。これがアメリカの歴史だ。かつてはこうやってアメリカ人が地獄に変えたメキシコが、三部作では遠い楽園になった。アメリカという国の輪郭を浮かび上がらせる作品だ。

どんな殺戮の合間にも目にした植物の写生を欠かさない判事の姿が、どんなに忙しくても読書を欠かさないビジネスマン諸氏と被ってちょっと笑った。これで邦訳されたマッカーシーは全部読んだぞ。☆☆☆☆☆。

平原の町 (ハヤカワepi文庫)平原の町 (ハヤカワepi文庫)
(2010/01/30)
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西部3部作の完結編。3部作第1作の「すべての美しい馬」で遠くメキシコで夢を見て、すべてを失って帰ってきたジョン・グレイディが、またまた美しいメキシコの娘に恋をする。それを支えるのが第2作「越境」でメキシコに行ったばかりにアメリカでのすべてを失った喪失感の男、ビリー。本作でも馬を中心とした生活、アメリカ西部の大自然がいきいきと描かれる。冗長に感じられる向きもあるかもしれないが、この淡々とした牧場での生活と劇的なジョングレイディと少女との出会いの対比がこの作品に叙事詩的な重みと広がりを加えている。

しかし本作は一方で、第二次大戦が終わった時期、古きよきアメリカが失われつつあるという嘆きの詩でもある。「越境」でもわずかに残された野性の狼が薄れ行く自然のモチーフとされたが、今回は本当の狩の代わりに野犬狩りだ。カウボーイのスキルのすべてを発動して行われるのが野犬狩り。狩のシーンとしての迫力は素晴らしいが、どこか物悲しい。さらに牧場はミサイル実験場のために収用の憂き目に会おうとしている。その中で頑なに昔からのカウボーイの生活を変えようとしない男たちの姿も哀愁に満ちている。

第1作と第2作は舞台も時代背景も共通しているが、まったく違う2人の男の生き方を描いていたが、本作では2人の生き方が見事に交錯し、見送る側と見送られる側に分かれる。そして今回も1人残されたビリーは世紀末まで生きながらえるのだ。運命に従った時の流れという次作「血と暴力の国」の主題に繋がる終わり方がまた心憎い。☆☆☆☆☆。

十六歳のビリーは、家畜を襲っていた牝狼を罠で捕らえた。いまや近隣で狼は珍しく、メキシコから越境してきたに違いない。父の指示には反するものの、彼は傷つきながらも気高い狼を故郷の山に帰してやりたいとの強い衝動を感じた。そして彼は、家族には何も告げずに、牝狼を連れて不法に国境を越えてしまう。長い旅路の果てに底なしの哀しみが待ち受けているとも知らず―孤高の巨匠が描き上げる、美しく残酷な青春小説。


越境 (ハヤカワepi文庫)越境 (ハヤカワepi文庫)
(2009/09/10)
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我が家では妻の要望もあって、今回IKEAのシェルフ「TRABY」を購入した。納戸がキャンプ道具で一杯になったからなのだが(笑) そんなわけでこちら♪



これだけ揃えても、IKEAは安くて助かる♪ いつもIKEAの家具を組み立てるのは楽しいのだが、今回はこんなものも購入。



IKEA純正インパクトドライバー。本当にラクチンです。音もF1のピットインみたいでカッコいい♪ ドリル刃も付けられるので、アルコールストーブの穴開けにも活躍。これで量産します!

アルコールストーブといえば、昨日の記事にGOMAさんから「カルデラコーン」にというありがたいヒントを頂いた。早速調べてみると、こんなスグレもの。



軽量かつ燃焼効率もアップするらしい。自作も出来そうだが、買った方が安いかな(笑) ちょっと考えます。





さて、虚無感の漂う小説である。主人公のビリーはニューメキシコからメキシコへ、三度国境を越える。最初は、捕まえた野生の狼を返す山を探しに、二度目は両親を殺した馬泥棒を探しに、三度目は弟を探しに。(以下、ネタバレあり)

最初は連れている狼が殺される。二度目は馬は見つかるが、泥棒は見つからず馬も失い、弟も撃たれて生き別れる。三度目は弟が葬られた墓を見つけ、遺骸を掘り出してニューメキシコに連れて帰る。

いろんなものが彼を置き去りにして去っていき彼は独り取り残される。戦争に行こうとしても徴兵検査で落とされる。彼の側に残ったのは父親が乗っていた馬一頭だけ。最後に弟を故郷の丘に埋めた後、ビリーは独りさめざめと泣く。

本作は「すべての美しい馬」に続く三部作の第二作。「すべての…」では主人公ジョンは何も持たずにメキシコへ行き、何かを得かけるが結局全てを失って帰ってくる。それは竜宮城へ行った浦島太郎のように、国境の向こうは幻だと思われた。しかし本作では、国境の向こうに行ったために主人公が元の世界での全てを失う。

第3作の「平原の町」にはジョンとビリーが登場する。国境の南に幻を見るジョンと、虚無感を漂わせるビリーがどんな物語を紡ぐのか、必見だ。本作は最初の狼の物語だけでも短編として十分成立するのだが、そこにさらにエピソードを二つ加えることで少し間延びした感が否めない。狼とビリーが心を通わせるシーンなどはとても美しいのだが。☆☆☆☆。

麻薬取引に手を染めた弁護士の男。一度儲ければそれでおしまいのはずだった。しかし、彼は自分がいつの間にか断崖の縁に追い込まれていることに気づく。そして彼にも、彼の周囲にも容赦のない暴力が襲いかかる――ピュリッツァー賞を受賞したアメリカの巨匠が描く傑作クライムサスペンス。リドリー・スコット監督、マイケル・ファスベンダー主演映画化。

悪の法則悪の法則
(2013/11/08)
コーマック・マッカーシー

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今年は私にとってはマッカーシーを発見した年だった。その描写のリアルさ。色、味、臭い、温度まで感じさせる。そこに登場人物の内面を上乗せすることで、人間の本質をグロテスクなまでに剥き出しにする。読むたびに、逃げ場のない感覚に襲われる。

本作は、解説によればマッカーシーが自ら書いた脚本を、プロデューサーに売り込んだものらしい。これを読むと、小説でマッカーシーが自分の頭の中身をどう表現したいと思っているか、多少は理解の助けになる。

普通に小説を読むと理解しにくい時間の経過や間が、本作にはふんだんに盛り込まれており、それが登場人物の恐怖や苛立ちを増幅している。一方で、小説ではすべてが文字に落ちているものが、本作では映像を通じて伝えようとするため、普段よりもより具体的な映像として読み手が思い浮かべる必要がある。さらには映像化するために、作家と制作側とは脚本外のコミュニケーションもあるだろうし。

映画ならは本当の映像で読み手に伝わるものが、脚本という形式をとることでいつも以上に読み手の想像力に依存しているわけだ。マッカーシーの作品は普段から背景説明が少ないが、本作が映画ならそれでも理解できそうに思える。その分本作は小説よりもインパクトに欠けている。映画が見たいという気持ちは強くなる。あ、それが狙いか(笑)

本作で、人間の欲望を剥き出しにする悪魔の役はキャメロン・ディアス。あの無邪気さが悪魔性と表裏一体で発揮されるのは楽しみだ。マッカーシーの小説ほどには評価しづらいので☆☆☆。

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