量は質を凌駕する

 ~ アウトドアと読書の日記

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空には暗雲がたれこめ、気温は下がりつづける。目前には、植物も死に絶え、降り積もる灰に覆われて廃墟と化した世界。そのなかを父と子は、南への道をたどる。掠奪や殺人をためらわない人間たちの手から逃れ、わずかに残った食物を探し、お互いのみを生きるよすがとして―。世界は本当に終わってしまったのか?現代文学の巨匠が、荒れ果てた大陸を漂流する父子の旅路を描きあげた渾身の長篇。ピュリッツァー賞受賞作。


ザ・ロード (ハヤカワepi文庫)ザ・ロード (ハヤカワepi文庫)
(2010/05/30)
コーマック・マッカーシー

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世紀末、人類はほぼ死滅し、父と子は南を目指して歩いていく。なんの希望もない殺伐とした世界に取り残された親子の愛情を描いた傑作。著者が本作の着想を得たのは、当時4歳の息子と過ごしている時だったそうだ。ちょうど私の息子と同い年。作中の少年はもう少し歳上だが、この父が息子に感じる狂おしさは、まさに4歳くらいのあどけない息子に対する感情にぴったり一致する。

人が人を食らう世界に取り残され、そこに愛する息子と二人きり。一緒にいることが果てしなく哀しく切ない。ただただ息子の柔らかい頬に自分の頬を寄せ、その髪の毛の匂いを嗅ぐ。極限の状況に置かれているからこそ、いとおしさが何倍にもつのる。そんな状況で父も試され、息子の信頼を失ったり、また取り戻したり。息子もそんな父の姿を見ながら、純粋さは保ちつつも、人間として成長していく。

そして父は、自分の死を予感する。こんな不条理な世界で息子より先に死ねば息子はきっと生きられない。幼い息子をひとり残して自分は死ねるのか。しかし息子は唯一の希望だ。息子を守りきることが自分が人の親であることの証になる。この切なさや、息子を守るためだけに生きようという父の決意、余りにリアルで100%感情移入してしまった。

ネタバレになるのでこれ以上は書けません。ハッピーエンドとも不条理な終わりとも言えません。それを言ってしまうと、この切なさが半減してしまうからです。でもその苦しさが最後のカタルシスにつながるということだけは申し上げられます。そしてきっとあなたも、この本を読み終えたとき息子を抱き締めたくなります。手をつないで歩きたくなります。似たテーマの小説は時々ありますが、マッカーシーの筆力により、風景の寂寥感と子供の純真さのコントラストが見事で、息子を持つ父親必読です。それにしても、ただ親子が歩いて旅をするだけなのに、こんなに重厚な物語になるのが驚き。☆☆☆☆☆。

都立水商 (小学館文庫)都立水商 (小学館文庫)
(2006/03/07)
室積 光

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ドスコイ警備保障 (小学館文庫)ドスコイ警備保障 (小学館文庫)
(2006/09/06)
室積 光

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史上最強の内閣 (小学館文庫)史上最強の内閣 (小学館文庫)
(2013/03/06)
室積 光

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えー、今回は相当柔らかいです。時にはこういうものも読まなければ。ワハハハハ。

しかもまとめて3冊! せっかく来てくださって申し訳ないのですが、3日たてば忘れるような本なので「そんならいいや」という方はここで止めても大丈夫です。重要なことは書いていません。あ、それはいつもか(笑)

最初に「史上最強の内閣」を読みまして、そのスピード感とか、してやったり感とかに乗せられて、著者のデビュー作他も読んでしまいました。読んだ順に行きます。

まず「史上最強の・・・」ですが、いわゆるシャドーキャビネットが明治維新の志士の子孫たちで構成されていて、北朝鮮からの攻撃が明日にもくるという危機に颯爽と現れて、たちどころに問題を解決していく、というお話。かなりご都合主義なところもありますし、「本当の総理官邸はそんなに暇じゃないよ」と突っ込みたくなるところ満載ですが、いいんです。

この作品は、作者が民主党政権に対して思っていた不満を、小説という形でぶつけたかったみたいです。たとえば国旗や国家を尊重しない人になんと言えば理解されるか、一旦は確保された金正日の長男、金正男を北朝鮮に返さないためにはどうするべきだったのか、とか、そんな断片的なエピソードをならべたかったのです。これで本当に内閣を構成できるなんて当然作者は思っちゃいません。スカッとすればそれでいいんです。

ただ最後にすこしオセンチな表現があったのが残念です。これがなければ、スカッとして終われたのですが、作者の政治的信条がかいまみえてしまいました。

「都立・・・」と「ドスコイ・・・」は、舞台が水商売を教える高校、廃業力士が作った警備会社、と違うだけで、基本的には同じお話です(笑 

「都立・・・」では、酔った勢いで文部省の官僚が「水商売を専門に教える高校を作ろう!」というところから始まりますが、おそらく作者も酔った勢いでこの作品のアイデアを思いついたに違いありません。その酒の席はさぞかし盛り上がったことでしょう。なにせ「ソープ科」に属するうら若き乙女達が同級生の男子相手に実習する、などというとんでもない破廉恥な設定がサラリと書かれているのですから。こんな思いつき、酒の席以外ではありえませんw
そして物語はなぜかホスト科の生徒が超剛球投手で甲子園に出場してしまいます。

これで少しやりすぎたと思ったのか、「ドスコイ・・・」では廃業した力士に再就職先を提供する、というストーリーになっていますが、こちらも途中からメンバーが米国音楽界で人気者になっていくので、基本的な構造はまったく同じです。

3つ読んでとっても痛快だったのですが、こういう内容なので勿論何も残りません。多分それで作者の狙い通りだと思います。その意味では漫画や劇画の原作にするのがいいかもしれません。っと思ったら、やっぱり「都立水商」は漫画化されてましたね。

毒にはならないと思うので☆☆。

1949年。祖父が死に、愛する牧場が人手に渡ることを知った16歳のジョン・グレイディ・コールは、自分の人生を選びとるために親友ロリンズと愛馬とともにメキシコへ越境した。この荒々しい土地でなら、牧場で馬とともに生きていくことができると考えたのだ。途中で年下の少年を一人、道連れに加え、三人は予想だにしない運命の渦中へと踏みこんでいく。至高の恋と苛烈な暴力を鮮烈に描き出す永遠のアメリカ青春小説の傑作。

すべての美しい馬 (ハヤカワepi文庫)すべての美しい馬 (ハヤカワepi文庫)
(2001/05)
コーマック マッカーシー

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あらすじを簡単にいうと、馬を育てることに情熱を燃やしメキシコに向かった少年が、そこに馬の楽園を見出だすが、やがてメキシコの古い家族の因習や社会制度に絡め取られ、自分の生きる場所はアメリカしかないとさとる、という物語である。



本筋と関係ないが、キャンパーとしては気になる描写が満載だ。カウボーイなので、基本的に移動は馬だ。しかも野宿。そのためにはシュラフやテントなどは使わず、馬の鞍にくくりつけた毛布にくるまって焚き火のそばで眠る。食べ物はアメリカにいるときは缶詰だったが、メキシコに入ってからは持っているライフルで獲った獲物を焼いて食べる。しかも焚き火の下の地面に埋めて蒸し焼きにしたりする。いたってシンプルだ。

自分はもちろんオートキャンプしかしないし、装備もずいぶん多くなって車に積むのも大変だが、思い切り軽装備で徒歩やら自転車で行けないかとも時々考える。馬は全部運べるからいいね! でもそうか、バイクなら同じことができるかも。

なーんて妄想をめぐらせながら読んでいたが、このお話はあえて例えるならば、浦島太郎の物語だ。第二次大戦を終え近代化が進むアメリカに比べれば、メキシコは楽園と呼べるのかもしれない。しかし愛してしまった女性が故郷を捨てられない、と嘆く場面で、主人公はメキシコが彼の理解を超えていることを知る。ここを境に、主人公は彼がメキシコで失ったものを全て取り返した上で故郷に帰ることを決意する。

>あなたのいうようにはできないわ、と彼女はいった。わたしはあなたを愛している。でもできないの。
>彼は自分の全生涯の意味がこの一瞬に凝縮されたのをはっきり見てとりこの先自分がどこへいくのかまったくわからないことを悟った。彼は何か魂を持たない冷たいものがもうひとつの人格のように自分のなかへはいってくるのを感じそいつがいつか出ていく保証はどこにもないと思った。

この大きなストーリーの流れの中で、馬や自然、子供たちの描写は一貫して美しく、マッカーシーの馬や自然に対する並々ならぬ愛情が窺われる。またマッカーシー特有の鍵括弧を廃した会話表現が、人間の存在を自然の中で浮き立たせず、人間の会話も含めすべてがあたかも同じ自然の営みであるように感じられる。この虚構の世界にひたせてくれることこそ文学の素晴らしさだ。特に馬の描写は秀逸である。

>ジョン・グレイディが両膝ではさむ肋骨の穹隆の内側では、暗い色の肉でできた心臓が誰の意志かでか鼓動し血液が脈打って流れ青みを帯びた複雑な内臓が誰の意志でか蠢き頑丈な大腿骨と膝と関節の処で伸びたり縮んだり伸びたり縮んだりする亜麻製の太い綱のような腱が全て誰の意志でか肉に包まれ保護されて、蹄は朝露の降りた地面に穴をうがち頭は左右に降りたてられピアノの鍵盤のような大きな歯の間からは涎が流れ熱い眼球のなかで世界が燃えていた。

そしてようやく故郷近くにたどり着いた主人公は、あることから裁判で旅の全てを語る機会を与えられる。罪の意識を吐露する主人公だが、判事は優しい言葉を掛ける。メキシコの世界に身を浸している読み手に対してもこの言葉は暖かく響く。

>なあきみ、と彼はいった。きみは少し自分に厳しすぎるようだ。君の話を聞いて思ったのはきみはじつによく頑張ってあの土地から無事に帰ってきたということだ。おそらくいちばんいいのはこのまま前に進んで後ろを振り返らないことだろう。

故郷に帰ってきた浦島太郎にふさわしい言葉ではないか。言い換えるならば、これが国境の南の世界に対するアメリカ人の認識なのだ。でも主人公にとってはどちらが幸せなのか。最後のシーンでは主人公が行き場を無くしてさまよっているように見える。しかしマッカーシーの初期の作品「チャイルド・オブ・ゴッド」の陰惨たる世界にくらべると、エンターテイメント性は増したものの、ストーリーの骨太さにその片鱗が残されている。

翻訳も素晴らしい。余りに面白かったので二回読んだ。今一番好きな作家かも。ちなみに題名の「すべての美しい馬」とは子守唄の歌詞らしい。マット・デイモン、ペネロペ・クルスで映画化もされてます。これも見たい!☆☆☆☆☆。

ヴェトナム帰還兵のモスは、メキシコ国境近くで、撃たれた車両と男たちを発見する。麻薬密売人の銃撃戦があったのだ。車には莫大な現金が残されていた。モスは覚悟を迫られる。金を持ち出せば、すべてが変わるだろう…モスを追って、危険な殺人者が動きだす。彼のあとには無残な死体が転がる。この非情な殺戮を追う老保安官ベル。突然の血と暴力に染まるフロンティアに、ベルは、そしてモスは、何を見るのか―“国境三部作”以来の沈黙を破り、新ピューリッツァー賞作家が放つ、鮮烈な犯罪小説。



血と暴力の国 (扶桑社ミステリー)血と暴力の国 (扶桑社ミステリー)
(2007/08/28)
コーマック・マッカーシー

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枝豆キャンプの現地からお送りします。本作は映画「ノーカントリー」の原作である。

老いてこの国を支配する暴力に抗えず職責を全うできなかった老保安官のストーリーと、悪の象徴として運命を執行していく殺人者の行動(死神なので「生きざま」とは言えない)が交差する物語。しかし運命を執行する死神の方が圧倒的な存在感だ。

この死神は時々コインを投げるが、それで運命を決めているのではなく、占ってるだけだ。たまたま入ったガソリンスタンドの店主とのやり取りには戦慄を覚える。

>裏か表か?
>そうだ。
>こりゃなんです?
>いいからどっちだ。
>何を賭けるのかわからないとねえ。
>それがわかったらどうだというんだ?
(中略)
>さあどっちか言え。おれが代わりに言うわけにはいかないからな。それじゃフェアじゃない。正しいことでもない。さあどっちだ。
>あたしゃ何も賭けちゃいないですよ。
>いや賭けたんだ。おまえは生まれたときから賭けつづけてきたんだ。自分で知らなかっただけだ。

括弧のない台詞が、心の声との区別を難しくし、それが緊張感をさらに高めている。このやり取りが、この死神の死生感のすべてを物語っている。

この死神は獲物を誘き出すために、獲物の妻の命を奪う、と脅す。獲物は言うことを聞かず、結局他のハンターの餌食になったにもかかわらず、死神は獲物の妻の前に現れる。

>あたしを痛めつける理由なんてないでしょ。
>わかってる。でもおれは約束したんだ。
>約束?
>そうだ。おれとおまえの運命は死んだ人間の手の中にある。この場合はおまえの亭主の手の中に。
>そんなの筋が通らない。
>残念だが筋は通ってる。
(中略)
>よし、それじゃせめてこうしてやろう。(中略)表か裏か。

結局この妻もコインに命を賭け、そして命を落とす。しかし死神に言わせれば、それも運命の一部でしかないのだ。いかに意思の力で抗おうとも、圧倒的な力で運命はやってきて、去って行く。以前の作「チャイルド.オブ.ゴッド」でも、主人公がまるで野獣のように人の命を奪って行った。これは、被害者にとっては暴力というよりも運命と呼ぶにふさわしい。

老保安官は無力感に苛まれて物語は終わる。そして読後感としては圧倒的な運命の力の印象だけが残った。
☆☆☆☆☆。

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レスター・バラード。暴力的な性向を持った彼は、家族を失い、家を失い、テネシーの山中で暮らしはじめる。次第に社会とのつながりさえ失われていくなか、彼は凄惨な犯罪に手を染める。ピュリッツァー賞を受賞したアメリカの巨匠が、極限的な孤独と闇を、詩情あふれる端整な筆致で描き上げた傑作。

チャイルド・オブ・ゴッドチャイルド・オブ・ゴッド
(2013/07/10)
コーマック・マッカーシー、Cormac McCarthy 他

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日本では映画「ノーカントリー」の原作者として知られるマッカーシーの初期の作品。読んでいると、ジェフリー・ディーバーの初期作品「監禁」などでの舌触りを思い出させる。ジメジメして暗い不快な場所に得体の知れない昆虫がいて気持ち悪いのだが、座ってじっと見ていると引き込まれるあの感じ。

実話に基づいているらしく事件自体は陰惨なものだが、これが読んでいてもあまりそう感じない。なんだか動物が狩に出かけて獲物を捕ってくるという生態を読んでいる気になってくる。作者の狙いもその辺にある気がする。タイトルは「神の子」だが、獣も同じ神の子ということか。

読点と鍵括弧を一切廃した文体は独特だが、誰かの独り言を聞いている気になってくる。ちょっと引用する。

>バラードは雪のついた木の枝を引きずって闇のなきら家に入ってくるとこの乾いている部分も凍った部分もある枝を小さく折りその折った枝を暖炉に詰めこむ作業に取りかかる。床に置いたランプの炎は風になびき風は暖炉の煙突のなかで呻く。

>それから床に座りライフルを拭き弾薬を膝の上に弾き出してそれらを拭きアクションを拭いてオイルを塗りレシーバーと銃身とマガジンとレバーにオイルを塗りまた弾薬をこめレバーで薬室に弾薬を一発送りこみ撃鉄をおろすとライフルを自分の脇の床に横たえる。

原文も同じように平板な表現がカンマを使わないでandとthat、thoseなどでつないでいるものと想像するが、それを日本語でここまでの仕上がりにしている翻訳者も相当なものである。とおもって検索したら、以前読んだコンラッド「闇の奥」もこの人が翻訳していた。ちなみに「闇の奥」は映画「地獄の黙示録」の原作だと言われている。

一箇所だけ、主人公が人間らしい感情に引き戻されるシーンがある。ここはかなり印象的だ。

>バラードは毒づき続けた。語りかけてくる声は悪魔の声ではなく既に脱ぎ捨てたはずの古い自我の声でありその声は時々正気の名の元に訪れて破滅を招く憤怒の縁から優しく引き戻そうとする手となった。

この一文があることで、本書が単なる動物観察日記となることを引き止めている。☆☆☆☆☆。

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