量は質を凌駕する

 ~ アウトドアと読書の日記

カテゴリ:●徒然 > 俺的歴史記録

キャンプレポは一旦おいといて、GWをさらりと振り返る。

まずはラン。9日間で132kmとまあまあ距離が踏めた。
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4月の距離を300kmにすべく連休初日に30km走をやったのがダメージ大で、20㎞も足りなかったのは誤算。それ以降も毎日10km超の距離を細々と積み上げた。(除く4日)

やはり週70kmを超えるとかなり脚に来るようで、今日は20kmに届かず19kmで終了。後半はちょっと頑張ったが4:50以上にペース上がらず。
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まあこうやって毎週生真面目に距離を積み上げていれば、そのうちペースも上がってくるでしょう。

先日の官九郎クンのブログに、オレは決めたメニューをやるのが苦にならない、ていうことを言ったと書かれていた。そしてその後に決めた通りにしか練習しないと免疫力も落ちる、と続いていて一片の悪意を感じた(笑)。

というのはもちろん冗談だが、オレも基本的には毎週の距離は墨守しているが、練習メニューは走り始めてから決めることが多い。多分言ったのは、よく一人で30km走は辛くてできないというのを聞くけどそれは苦にしたことはない、という趣旨だったと思う。そして官九郎クンもカミさんもトイレが近い(笑)



子どものころは本当にコツコツやるのが苦手で、というのもコツコツやっても効果が感じられたことが無かったからだと思うんだけど、毎日が三日坊主の塊だった。スポーツも勉強もいつか突然できるようになる日をぼんやりと待っていた。

仕事でも20代のころに、良くできるセンパイが飛び込み先に毎日名刺を置いていって、ついに取引が取れた時にその社長が名刺を全部取ってあったという武勇伝を聞いても、そういうのはオレのスタイルじゃないなあとかスカしていた。実力も無いのにホームランボールを待っていたわけだ。

そういう意味では、同世代でも死ぬほど努力して結果を出す人もいたんだけど、そういう人が不思議でならなかった。彼らはどうして努力がちゃんと結果につながるのか。自分はいくらやっても結果につながらない。まあ今思えば、努力が単に足らないだけなんだけど。いつか世界がオレの才能に気付く、くらいに思っていた(笑)。



30代も半ばになって禁煙を契機にマラソン、いや、ランニングを始めた。始めて参加したのが1999年の東京ベイ浦安シティマラソンのハーフ。いきなり1時間42分で走って、これは努力のお陰ではなく、オレの能力ならこのくらいで走れて当然だと思った(笑)。まあ月100kmくらいで大変でもなんでもないですけどね。

その後しばらくは特にタイムの短縮を狙っていたわけではないんだけど、2002年の荒川市民マラソンの前はたまたましっかりした練習ができて、3時間40分が切れた。キロ5分は切れなかったけど、それに近いペースで42.195kmで走れて、ああ、練習したらマラソンも速く走れるんだって、初めて思った。

だってキロ5分ですよ。走り始めたばかりの時はキロ5分というのはある意味、長距離を走れるギリギリのペース。最初は10kmが限界だった。それに近いペースでフルマラソンが走れたことに大いに手ごたえを感じた。その時オレ、38歳。苦手な努力で少しだけ成功体験ができた。

うーん。こうして振り返ってみると、この時に身近に速い人がいれば、35歳から38歳の3年でもっと追い込めてたかも。



話がそれた。

このあたりから仕事でも真面目にコツコツやる要素が増えてきて、見えないところをキチンと埋めるのが大事だということに徐々に気が付いてきた。というか、見えないところで手を抜いている事が後でバレると、ものすごく恥ずかしいということに気付いたというべきか。

マラソンと同じで仕事でもちょっとだけ持久力が増えた。以前のオレでは考えられないが資格も取って再就職には大いに役に立った。また話はそれるが、世間では「努力する才能」に恵まれた人がいるらしい。でも本人にしてみたら「コツコツ努力して努力する才能を身に付けたんだよ!」って言いたいのかもしれない。確かにそれを親からの遺伝だと片付けられたら失礼な話だ。



そして5月5日こどもの日の翌日5月6日はオトナの日。オレもaround50の最終年に突入!あと1年でなんとaround60だ。ランニングとブログのお陰でこの1年も実りの多い年だった。何よりも健康。健康診断の数値も何の不安もない。

ランニングはいつまで続けられるだろうか。今の健康はランニングとセットだ。走れてなかったらこんなに気持ちよく過ごせていない。健康のためだけなら月間300kmは不要だと思うけど、記録を狙っているからこその月間300kmだし、300kmだからこその気持ちよく走れる走力。

記録を狙わなくなったら走力も落ちて、走ってもそんなに気持ちよくはないかもしれない。そうしたら健康を維持できるほどに走れるのか。健康のために走るってなかなかむつかしい。自分の感覚的にはサブ3.5くらいで走れていればちょっとしたジョグも楽しく走れるのだが。



GWを振り返ると本当によく飲んだ。5月1日の鎌倉侵攻作戦の反省会は、ランの時間の倍の時間飲んでいた。5月3日は同じ5月生まれの人たちと誕生会だったんだが、これも夕方5時から10時前までよく飲んだ。話題の半分はTシャツと超音波治療器(笑)。5月4日はキャンプでお隣のご主人と仕事についての重い話。そして今日は家族で誕生会。

これでさっき体重を計ったら60.6kgだった。奇跡!

いや、130km走ったんだから当たり前か。around50最終年、まだまだ頑張りたいと思います。みっつさんではないけど、お酒は少しだけ控えようかと思っています。


本日の走行距離:19.0km
今月の走行距離:76.7km
本日の最低体重:60.6kg
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THさんが降格人事について赤裸々に語って下さったので、催促したオレも書かないわけにはいかない。実はオレは実質降格を二度食らっている。学習できていない、全然懲りていないのだ。以下にその経緯を書くが結構暑苦しいので閲覧注意です(笑)



一度目の降格は、あれは新ビジネスのために取引先との間で作った合弁の準備会社に出向したときのこと。その新ビジネスの検討フェーズから担当の課長として関わっていたオレはその開業のためのプロジェクトの実質リーダー。でもまだ40過ぎだったので、一応10歳近く年上の部長がその会社の社長になった。さらに経営企画部長としてなぜか同世代の課長が発令された。

社長、経営企画部長ともに実務についてはそれほど明るくない。なんと言っても新事業のコアになるのはシステム。二人ともシステム開発に関わった経験なし。この時点で正直暗い気持ちになった。たぶん何事も一から説明しないと話が進まない。そしてこの経営企画部長がイチイチ張り合ってくる。一応、その上の担当役員にも相談してみたが「この体制をちゃんと回せばお前は成長できる」とか言ってらちが明かなかった。最善の体制で臨むのがビジネスだと思うんだが・・・

実際にプロジェクトが始まってみると、システム開発のために採用した新興ベンダーが提供するパッケージソフトにはいろんな問題があった。その結果、新ビジネスの開業が当初予定から1年遅れることになった。社長が体調不良を訴えて入院したのはその日の夜だった。

当の役員も準備会社に飛んできて、プロジェクトの対応を議論していたその時、オレは不用意にも例の経営企画部長を難詰する言葉を吐いてしまった。その瞬間に担当役員の顔色が変わった。社会人には色々タブーはあるが、上の者の前で下の者同士が言い合いをするというのもその一つ。嫌う人は多い。

その3日後、オレは本社の人事担当者から呼び出され本社に赴いた。てっきり今回の諸々について事情聴取されるのかと思ったら、いきなりプロジェクトを即日外れろとの仰せ。もう天地がひっくり返るかと思った。そもそもオレ無しであのプロジェクトは進むのか?その後で面談した担当役員曰く「キミにはコミュニケーション能力が欠けている」。

それにしたって、オレを外してプロジェクトが進み始めるわけでもないだろう。自分のサラリーマン人生の集大成になるはずだったプロジェクト。それを奪われて明日から何を仕事にすればいいのか。絶望感にさいなまれていたところ、別のある役員が種明かしをしてくれた。まあ細かいことは省くが、要するに権力争いに巻き込まれたとか、プロジェクト延期のスケープゴートにされたとか、そういうことらしい。大いに凹んだ。といいながらその直後にトモコとの結婚も果たしたのだが(笑)

そういえば最近突然解雇された人がいましたね。やっぱり不自然だよね。彼の気持ちは良く分かる。まさに「梯子を外された」感。





ということで出向する前は本社で課長、この別会社では部長だったオレだったが、プロジェクトを外されて本社の平社員に逆戻り。その後しばらくして課長にまでは戻ったが、結局この件で×がついたオレの昇格はある時点で頭打ちとなった。

その時に思ったこと。実質的にリーダーというポジションを引き受けた時点で、オレはサラリーマンとしてのリスクも取ったのだ。それなりの規模の会社なので、物事が動くときに色んな人の思惑が絡むのは当たり前。それに対して脇を固めて十分に自分自身を守れなかったオレには、サラリーマンとしての能力が欠けていた。実務レベルでいくら実力があっても、そんなことでは自分のやりたいことをやったり、一緒に働く仲間を守ることはできない。

それにしても昇格が頭打ちになったのは本当に辛かった。それから5年近くその思いに悩まされた。なんというか、全人格を否定された気がした。あれに比べたらフルマラソンの40kmの辛さなんて屁でもない。マラソンは肉体の苦痛に過ぎない。

その後も降格騒ぎがあったんだけど、それは完全に巻き込まれ型。といいながらオレの脇の甘さもあったな。学習できてない(笑)

でもいよいよこれ以上の昇格は仕組み上も無理だと分かった時、ようやくオレは頭を切り替えることができた。そう、会社が人生なんかじゃない。だいたい全員が勝ち続けられるわけではない。たとえ社長になったって晩節を汚す人は多くいる。だからこれは勝ち負けなんかじゃなくて、会社がオレに付けた記号に過ぎないんだ。だいたい会社に人の人生を値踏みする権利なんてない。自分の値打ちは自分で決めればいい。

そう思ったら、お先真っ暗だったサラリーマン人生が急に違ったものに見えてきた。それがちょうどフルマラソンを再開した頃のこと。たんに頭の中で割り切れただけでなく、マラソンとブログもオレの再生を手伝ってくれた。同時にこれまでの自分のサラリーマン人生も肯定的にとらえられるようになった。それまで以上に、目の前の仕事に真剣に取り組むようになったかも。








オレの仕事の話とか、うまくいったことの話が暑苦しくてウザいのは、多分こういう経験の反動です。でもチャレンジしてこうなったんだから、その結果は受け止めようと今は素直に思う。それに色んな経験をしたおかげで、転職再就職先では重宝されている気がする。何がどう役に立つかわかんないですね。(自ら勤務先を退職して自分で就職先を見つけたように読めるので修正しました。元勤務先からの斡旋による再就職です。普通に転職する度胸はありません)

だからやっぱりサラリーマン諸兄には、今の場所でベストを尽くそうよって思うのだ。サラリーマン生活が終わるときに後悔しないように。余計なお世話だけど。会社を辞めさえしなければ家族は守れる。オレもそこは守った。どんなに悔しくてもネガティブな理由では会社は辞めなかった。


これまでの勤務先を今月末で正式に退社するので、この話ももう書いていいかなと思い、切っ掛けもあったので書いてみた。かなり暑苦しくなったので、今週は「限界費用ゼロ社会」はお休みです(笑)
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自分は山口出身なので、九州とは因縁浅からぬ関係だ。
高校からの進学先も九州大学って人が結構周囲にいた。
初めて九州にわたったのは山陽新幹線が博多まで延伸した昭和50年。
そのときは新下関まで行って、関門トンネルと関門大橋で門司まで往復した。


その後は大学時代になんどか博多まで行った。それは部活(笑)の関係。
中洲の夜は苦かった(笑)

大学4年の夏に、バイクで九州を一周した。
よく覚えていないが、大阪からフェリーで大分にわたり、
臼杵→阿蘇→雲仙天草→鹿児島→都井岬→青島といったルートだった気が。


最近では結婚する直前の2007年にトモコ(当時婚約者)と九州を一周した。
山口の実家からクルマでまず熊本に入り、
途中菊地のあたりで道端の肉屋で買った馬刺しを、近くの公園で食す。
激ウマ~。(馬だけに) あの肉屋は無事なんだろうか。
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そこから南阿蘇国民休暇村に宿泊。
今回は被害はどうだったんだろうか。
10年前、割とふっくら。腹もふっくら(笑)
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翌日は阿蘇山を周遊。多分草千里付近。ポーズがキモい(笑)
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そして火口。
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そこから南下して鹿児島に向かう。
お約束の西郷隆盛像。腹はひっこめてる(笑)
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確かこの日は鹿児島市内に宿泊。
そして翌日ジェットフォイル船で屋久島へ向かう。
実はよく知らないで行ったんだが、屋久島って全島トレイルの島。
山登りにそれなりに親しんでいないと楽しめない。
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いちおう軍手を持っていくくらいの知識はあったが、足下はジョギングシューズ。
とにかく水辺がキレイだった!弁当を食すトモコ。若い(笑)
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絶景をバックに。オレも若い(笑)
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山に登るのがあまりに楽しく、東京に帰ってから速攻で谷川岳(ロープウェイ)に行った。
そのあと、トレッキングシューズ購入。
屋久島の後は佐世保の海上自衛隊資料館、福岡ラーメン三昧。
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たしかキャナルシティの一蘭に行ったと思う。
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九州の魅力。
温暖な気候、短い旅でも長期でもどちらでも楽しめる。行く先に困ることがない。
写真は無いが佐世保に行く途中、有田によって新生活の食器を買ったり。
あまりに気に入って、東京にも店があったので結婚披露宴の引き出物にした。


だからそれから5年後、子供ができて電車やSLに興味を持ったとき、
やっぱり九州でしょ、って思って2泊3日の旅に出掛けた。
ルートは飛行機で鹿児島に入り、肥薩線のディーゼル、SLを乗り継いで、
熊本、阿蘇、黒川温泉とめぐる。

これは嘉例川駅。
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ここから、いさぶろう・しんぺい号に乗る。
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SLに乗り継ぐ人吉市内で焼酎の蔵元を見学。
これが因縁で、いまだにここの焼酎を飲み続けている律儀なオレ。
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これ、全部試飲しました(笑)
今も飲んでるのは、左から4番目の「峰の露」
米焼酎だが黒麹なのでキックが適度にあって飽きない。
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出来上がるオレ。コースケも出来上がってる?(笑)
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そしてお待ちかねのSLで熊本へ。
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熊本城の石垣にビビるコースケ。これが崩れたとは・・・
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多分いまもいるはずだが、熊本城内にはエキストラのお兄さんが何人かいて、
「加藤清正でござる」とか言って楽しませてくれる。
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ここから阿蘇経由で黒川温泉へ。
本当は鉄道で行くはずだったが、直前の水害でJRが不通に。
やむなくレンタカーで大観峰経由で黒川温泉へ。
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派手さはないが、自分目線で楽しめる。それが九州のいいところか。
復興するには時間もかかると思うが、決してあきらめないで欲しい。
九州地方を愛する一ファンより。





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ここからは閲覧注意。ある意味グロ画像。


大学の時の旅行の写真を探していたら、こんな写真が。
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だれですか、このぶりっ子は(笑)。
応援団の団室で、チアのバトンを持って。
多分20歳。まだ口がへの字じゃない。時は残酷だ(笑)

ちぃーす。
今日はオレの4輪遍歴を紹介するっス。
モチロン実家に戻れば色違いのエンツィオが4台あったりするんスけど。

最初に車を買ったのは、大学四年のときっス。
忘れもしないカリーナセダン78年式。
これのブルーメタリックを知り合いから5万円で買ったんスよ。



エンジンは1,800ccOHV、馬力は多分100馬力無かったと思うっス。
9年落ちだから、ダサいんだけど、
とにかく屋根が付いてて走ればよかったんス。(ニヤリ)
だってバイクじゃあねえ…

こんな車でも、乗ってくれる女の子は何人かいたんスよ。
オレのハイセンスなギャグで、
暑い夏もエアコン要らず!
ちなみにホイルだけはアルミで、
タイヤは60履いてました。

その次の車を買うには就職5年後。
当時は「私をスキーに連れて行って」が流行ってたじゃないスか。
自分も当然乗っかってたんで、
欲しかったのはこれだったんス。



日産テラノR3M。
2,700ccのターボディーゼルで100馬力ありました。
スキー場周辺の凍結した急坂で、
他の車がズルズルやってる中を、
こいつの4WDは威力を発揮しましたね~。
さらにはフルフラットになる車内。
都心部で威力を発揮するっス(笑)

結局これ買ったんだけど、
2年ほどで東京都心に転勤になったので、
駐車場が高くて手放したんスよ。
気に入ってたんスけどね。

住んでた社宅の駐車場が空いて、
次の車が買えたのが3年後っス。
テラノでの4WD体験が忘れられず、
また4WD車を選んだんスよね。

選んだのはこれっス。



スバルレガシィ・ツーリングワゴン250T。
レガシィだと2,000ccターボが有名ですけどぉ、
買ったのは2,500ccNA、170馬力っス。

スバルは伝統的に水平対向エンジンなので、
ボンネットの高さが低いんスよ。
だから視界が広いし重心も低い。
4WDと併せて、安全性抜群っス。
完全にスバルのパンフの受け売りですけど。

これでスバリストになったオレですが、
これから3台続けてスバルを買いました。
ホント、スバルの安全性は抜群だったっス。
雨の日も雪の日も、安心して運転できたんスよね~。

転勤の絡みで駐車場がまた確保できなくなったので、
このツーリングワゴンは実家に置きっぱなしにしたんスけど、
親父が10年、10万キロ以上のって、
めでたく廃車になりました。


100馬力未満、100馬力、170馬力と、
徐々にパワーアップしてきた我が愛車たちなんスけど、
2001年に買ったレガシィB4、自分史上最高パワーっしたね。



2,000ccの水平対向4気筒エンジンに、
ツインターボを装着し国内最強の280馬力を発生。
(自分のはATなので260馬力っス)
4WDによるグリップ力を活かして、
強烈な加速を見せてくれましたね~。
当時交際していたトモコフを
中野から浦安まで30分で送り届けていたのは、
記憶に新しい(誰の?)っス。
結局B4には7年乗りました。

そしてコースケがトモコフのお腹にいることがわかって、
いつまでもスーパースポーツじゃないだろうと、
買い換えたのがこちらっス。
同じくスバルのエクシーガGT。



7人乗りながら、インプレッサと同じ、
2リットルターボエンジンで220馬力を絞り出す、
美味しいとこ取りのワゴンっス。
高速道路でも、BMWの3シリーズならタメ張れました。

それにエクシーガのお陰で、
我が家はキャンプにも行けましたし。
後ろがとにかく広いんで、
いくらでも荷物積めるんスよね。

そんなわけでスバルは3台、
4WDは4台乗り継いだ訳ですが、
当初は馬力とか走行性能重視だったんですが、
だんだん積載力や乗り心地重視になっていきます。
かつ、荷物もたくさん積めると。

この辺がこの夏の「ディーラー巡り」でも重要なポイントなんですが、
その話はまた今度。



それにしても、ダラダラと締まりのない文章、
しっつれいしました~!


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男の子って子供の頃から乗り物好きじゃないですか。
自分の頃は「サーキットの狼」とか「赤いペガサス」とか人気あったし。
中学校の先輩が卒業してバイクに乗って凱旋したりして。
校庭をぐるぐる回ったら先生がなんか怒ってたり。

当時はカワサキのFXっていうバイクが大人気で。
今なら外為かよ!って名前ですけど。
ヤマハのRZ250なんかも人気でしたね。

映画「汚れた英雄」で吹き替えやった平忠彦とかね。
後で小説読んだらホントに主人公がゲス野郎でびっくり。

だから最初に、高校卒業直後、原付の免許を取ったんスよ。
それで大学に入って最初に乗ったのがこれ。ヤマハRD50。



当時ですら10年落ちだったんスけど、嬉しかったっスね~。
これで大阪から奈良とか行きました。懐かしの石舞台古墳。

さらに2年生の秋に、お金も無かったんで試験場で中型免許を取得したんス。
そしたら卒業する先輩がなんとこいつを譲ってくれたんですよね。



ホンダのVT250。35馬力で車重が170kg。軽くて取り回しが楽だったンだけど、高速道路ではちょっと怖かったっスよ。
燃費はよかったな~。

一度、大阪を朝発って、国道18号だか19号で松本まで行き、そのまま帰ってくる荒行をやったんですよね。ほら、オレ、寝なくても平気な方じゃないスか。
24時間でほぼ1,000km走りましたね~。

当然、原付では難しかった山口の実家へも何度も帰りましたよ。
高校の同じクラスの子を乗っけてツーリングとか行ったり。
東京にも行ったし、四国も一周しましたよ。それは一人で。
1年間だけどホントによく乗りました。

だがしか~し!
ほら、オレ、運転旨いじゃないですか。
四年生の春に、なんと限定解除しちゃって、バイトしていた学食の店長が持ってたこいつを、格安で譲ってもらったんスよね。



そう、CB750FA。
「バリバリ伝説」のグンの愛車と同じっス。
68馬力、車重230kg。結構重かったが、高速道路では超安定感がありましたね~。
何しろトルクが太いんで、3000回転で時速100km出たんスよ。
低回転で走れると、長距離の疲労感がまるで違いますよ。

野球部の応援に日生球場行くときも、学ランでこれに乗っていった。
メチャ目立ってたと思います♪
250ccだとたまに4輪に煽られたりしたけど、
ナナハンだと一切そういう不快な目に会わなかったっスね~。

九州も一周したな~。
あれが卒業旅行だったんスけど。

当時の映画で「彼のオートバイ、彼女の島」っていうのがあって、「ミナミの帝王」竹内力のデビュー作だったんスが、この中で狭い場所でバイクの向きをサイドスタンドを支点にして変えるテクが出てたんです。

頑張って真似しましたよ。当時のオレ、背筋180kgだったじゃないですか。歩道に停めたバイクをグルっと向き変えると、歩いてる人が「オオッ」って。どんだけ目立つの好きなんだよw

社会人になってCB750は一旦手放したんスが、取引先の社長がハーレーに乗ってたんス。
それを買い替えるので、古いのをまたまた格安で譲ってもらったっス。
それがこれ。



これは重かったっスね。
多分350kgくらいはありましたね。
一度、バッテリーが上がって押し掛けしたときはもう死ぬかと。

それにこれってオッサンがのる単車ですよ。
これ乗って喜んでるなんて、オレの青春も終わったなって思いましたね。

こっからしばらく単車は乗らなかったんスけど、2年ほど前にこれ買ったんスよ。



なにげにエンジンはついてないっス。
車重も9kgほどっス。
もうこれが一番気持ちいいっスね♪



長くなってきたんで、今日はこの辺にしときます。
そのうち4輪編も書きますんで、楽しみにしててください。




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