量は質を凌駕する

 ~ アウトドアと読書の日記

カテゴリ:●徒然 > 俺的歴史記録

昨日の更新をしたら久々に若き日の思い出が頭の中をぐるぐる回り始めてどこかに吐き出さないと止まりそうにない(笑)

無駄な会議を無くそう、とか言うじゃないですか。自分も何かを決めたり確認するわけではない会議は本当に意味が無いと思います。社会人になりたての時に独身寮に入っていたのですが、そこでは年に1回寮祭というイベントがあって、何人かでグループを作って出し物を企画していました。グループの中で手分けして出し物を組み立てていくんですが、ある時のその打合せで自分の分担をちゃんとやってこなかった人がいた。

おもわず「どうするんですか?」と質問したら「それをみんなで考えよう。みんなで力を合わせて考えよう」と来た。ああ、社会人になったらこういう下らない会議があるんだなって思いました。役割通りにまずは案を持ってこいよと思った。たとえイベントとはいえ、社会人がやってるわけでクラブ活動じゃないんだからねえ。

一方で、「方針を決める会議」とか「進捗を確認する会議」でも、その場でいきなりその中身を見せられる会議は最悪。もちろん非常事態とかで出席者がみんなその議題の案件のために超多忙で会議の場でしか内容を確認できないみたいな状況は別ですよ。まあそういう会議では進捗を確認して当面の問題解決の方向性を出すくらいしかできないですけどね。

そうではなくて「方針を決める会議」なのに、会議の場で資料が初見の状況は最悪です。30分の会議であっても、本当に真剣に資料の内容を確認して質問を準備したら2時間とか半日とか掛かることもある。そういう場に呼ばれて資料が初見だったのでそのまま帰ったこともありますね。回答に責任持てないもんね。

根回しとか言うのとはちょっと違いますよね。そこで意見を出し尽くしていないと、後になって不満が出てくることもあるし、そうしたら最初の会議の準備に使う時間の何倍も事態の収拾に時間がかかることもある。

「方針を決める会議」だけでなくて、「進捗を確認する会議」も重要ですね。念のために付け加えると、こういった「方針を決める会議」や「進捗を確認する会議」は、その位置づけが組織の中で正式に認識されている会議である必要があります。なんとなく集まって、という会議だと、その会議は何を議論し何に責任を有する会議なのかを確認するところから議論を始めなければならない。

組織が大きくなればなるほど、この設えには時間と手間がかかります。まあこういうのが得意な人っていうのはどんな会社にもいるんですけどね。そういう人は「官僚的」という言葉を誉め言葉と受け止めますね(笑)

「進捗を確認する会議」は自分は割と好きです。自分が事務局になるのもいいですが、わき役として参加するのも好きですね。何かの計画が進んでいる時っていろいろ疑問が出てくるじゃないですか。これを普通にその事務局に聞いても、忙しいと相手にされないことも多い。

しかし正式な会議の場であれば、発言したことは議事録に残される。当然疑問を投げかけられた側はその疑問を解消するように動かざるを得ない。もし動いて無ければ次回の会議で「前回お願いした件ですが」と追い打ちをかけることができる。その強制力の強さが何よりも魅力です。

そしてズルいようですが、もし言ったことが実現しなくても、自分が意見を言ったことは記録に残るので、自分も最低限の責任は果たせる。これは結構大事です。



米国に入国するときに入国カードって書きますよね。あそこには「スパイをやってましたか」とか「麻薬がらみの犯罪の経歴がありますか」とか、そんなの正直に答えるわけないじゃんっていう質問が並んでいます。あれは聞いたところによれば、その質問した事項に該当したとしても、そのこと自体で捕まえることはできないけれども、もし嘘を答えたら、嘘を答えた罪で捕まえることができる質問だそうです。なるほど。逆アリバイですね。

上に書いた会議でも、指摘するべき問題点を指摘していなければ、後で問題が顕在化した時には「なぜあの会議で指摘しなかったのか」と責任を問われるわけです。そう考えたら会議で寝てる場合じゃないですよね~。



ああ、ほかにもやることが山ほどあるのにまた長いブログを書いてしまった。

激沈Tシャツは現物が本日到着しましたので、今週末から順次発送作業にかかります。
にほんブログ村 その他スポーツブログ マラソンへ

毎年なにがしかこの日には書いているような気がするが、ちょっと踏み込み切れていないところがある。大きな被害は東北地方だったしそこで浦安の話を書いてもね、というところもある。でもそろそろ書いておかないと記憶が薄れるような気もするので。



地震が起きた瞬間は自分は当時の勤務先のオフィスにいた。最初に下から突き上げるような縦波がビクンと来てその後に微振動が続き、数十秒後に本震が来た。当時一緒に仕事をしていた人からはいまだに「キミ兄は最初の縦波で『これヤバい!』って叫んでましたよね」って言われる。普段の地震ではめったにない感じの縦波だったのだ。

オフィスは24階建てのビルの14階だったので、多分相当に揺れたのではないか。天井とか窓とかがギシギシいって揺れの時間も長かったし、いつビルがボキッと折れるかと思って生きた心地がしなかった。最初の揺れがおさまったとき、自分が腰に凄いチカラを入れていたことに気が付いてビックリした。腰の筋肉がオールアウトしていた。あれを「腰が抜ける」っていうんだろう。

過去の経験から電話がつながらなくなることが分かっていたので、揺れがおさまると同時に机の下から家に電話を掛けた。妻にはすぐにつながったが、家の周りが水浸しになっていたらしい。液状化の知識はあったがとっさに結びつかず、水道管でも破裂したのかくらいに思っていた。

その後、職場の他の人たちと情報収集とか今日の残務とか相談していたとき、一人の携帯電話のテレビ画像にあの衝撃の映像が流れてきた。それを見て、そういえば揺れている間に揺れの方向は東北だと思ったこととか、津波って大丈夫なのかって思ったことを思い出した。腰が抜けながらも割と冷静だったのだ。



自宅にはしばらく電話は通じなかったが夕方になってようやくつながった。様子を聞いてみると電気とガスは止まっていて水道だけは出るようだった。これからどう対応するのかを聞いたら何も考えてない、そのまま家にいるつもりだったという。

食べ物は、暖房は、どうするんだ、ってつい口調がきつくなった。当時息子2歳。そんな二人が家にぼーっといてどうするのか。胸が苦しくなってきた。1.5km離れた妻の実家にとりあえず避難する事になった。

電車も止まっていてそこから自宅に戻るには歩くしかなく、家族が孤立して家に取り残されているのに自分にはなんにもできないという無力感で一杯だった。そこからとりあえず歩いて自宅に向かい、妻子が避難している実家に着いたのが夜9時。家族の無事な顔を見て本当にほっとした。



今でも自分の中では、いざという時に自分のチカラでは家族を守り切れないかもしれないという無力感が漂い続けている。もう8年も経つがいまだにあの無力感から脱出できないでいる。自分の中の大震災の記憶です。

ちなみに妻トモコはそれ以降は防災意識が高まり、毎年持ち出し袋の点検にも余念がない。人間やればできる(笑)


にほんブログ村 その他スポーツブログ マラソンへ

今日は北風が厳しく、北向きのMy Castle(書斎な)は冷凍庫のような寒さなので、My Castle Annex、世間がリビングと呼ぶ場所でこれを書いている。今日は在宅勤務だったので日中は一歩も家から出ず、夜になって疲労抜きジョグに出かけたが、北を向いて走るときは罰ゲームかと思うほどの冷たい風が顔面に吹き付けてきた。



タイトルは人気DJのジェーン・スー氏が去年出版した本「生きるとか死ぬとか父親とか」から拝借。そのあとに「カーン・スー(敬称略)とか」と続けようかと思ったが、趣旨から外れるのでやめておいた。だいたいそんなところ。
生きるとか死ぬとか父親とか
ジェーン・スー
新潮社
2018-05-18


と書いてしまうと終わるので、そのジェーン・スーの本の話を続けよう。氏の父親はこの本が書かれた時点で77歳、氏は42歳。なんでも父上が素寒貧で家を借りる金もなくなり、氏が資金援助する引き換えにこの父についての本が書かれたという。親子なので色んな感情はあるだろうがそういう経緯もあって歯に衣着せぬ文調が心地よくもあり居たたまれなくもある。

特に氏の父上がビジネスに失敗して氏が生まれ育った実家から引っ越す下り。おそらく父も思い出したくないだろう、だから父の引っ越す姿も見たくないのだ、と氏は綴る。まったく同じ経験のある自分も同じ感情を抱いた。

何度かここでも触れているが、自分の父も事業に失敗している。形勢がまずくなり始めたのは自分が中学生のころ。そこから何とか自分が大学受験するまでは事業も生きながらえていたが、自分が大学に入った途端に終焉を迎え、入学後2週間して突然20万円が送金されてきた。

これは何だと聞いたら

「アンタが子供のころからもらったお年玉をためていた分」

それはつまりオレの金ということですね、お父さん。
しかもちょっと減ってませんか?
そしてさらに

「来月から仕送りはできん」

いや、まだ1回も送ってもらってませんけど?
そして、

「この金と奨学金で頑張れ」

奨学金はオレの借金だから。つまり全部オレのだから。
そういえば学資ローン借りるって言って合格証書のコピー取りましたよね?
30万円借りたんじゃなかったっけ?

「それは使い道ができた」

学資に使えよ!!

そんなわけで、大学4年の後半まで仕送りが復活することは無かった。授業料も自分で払っていた。その4年間の話は思い出したくもないのだが、またいずれ書くこともあるだろう。

今日書きたいのはそこじゃない。そんな状態で家はどうなってるんだ?と思って最初の夏休みに帰省したオレ。(あれ、GWだったかな?)

そこで、実家で目にした光景。山積みの段ボール箱。
まさに彼ら(両親)は引っ越そうと準備しているところだった。

どこに行くんですか?

「うん、お前の住んでる大阪がいいと思って」

はあ??
オレ、ただの学生ですけど?
そんなところに何しに来るの?
Youは何しに大阪へ?

とそこで思い当たった。
これは夜逃げだ。
もっとコッソリやれよ!




田舎からオレは一人大阪に出てきて慣れない学校と慣れないクラブ活動(笑)
そこに都会の「と」の字も知らないジジイとババアがオレを頼って?
冗談じゃない。いくら頑丈なオレでも病気になるわ!

その日は夜っぴて思いとどまるよう両親を説得。
なんとか大阪にはこないことになった。
しかしオレの戻る場所もなくなった。



父も母も山っ気があるというわけではないのだが、それ以降も紆余曲折があって本当に落ち着いたのはこの10年くらいじゃないだろうか。オレも結婚して(かわいい)嫁と孫にも恵まれ、最後の方は結構満ち足りてたと思われる。って2人ともまだ生きているが。

でも35年経った今でも、あの暑い日に家の中に積み上がっていた段ボール箱を突然思い出すんだよな。今の朝ドラでも大きな家から小さな家に引っ越す描写があって、結構リアルに記憶がよみがえった。ドラマだとたまに見る設定だけど、実際に体験するとキツいぞ。




若いうちの苦労は金で買ってでもしろ、なんていうけど、そんな金があったら違うもの買うよねえ(笑)
親としても自分のせいで家族にそんな思いをさせるのは辛い。子供が自分の責任で貧乏になるならしょうがないけど。

ああ、うちの両親もつらかっただろうな。冗談みたいにして書いてしまったけど、あの人たちは未だにオレに対しては遠慮がちだから。別に最初から怒ってなんかいないんだけどねえ。

本日の走行距離:12.0km
今月の走行距離:283.8km
本日の最低体重:61.3kg
にほんブログ村 その他スポーツブログ マラソンへ

キャンプレポは一旦おいといて、GWをさらりと振り返る。

まずはラン。9日間で132kmとまあまあ距離が踏めた。
2018050603

4月の距離を300kmにすべく連休初日に30km走をやったのがダメージ大で、20㎞も足りなかったのは誤算。それ以降も毎日10km超の距離を細々と積み上げた。(除く4日)

やはり週70kmを超えるとかなり脚に来るようで、今日は20kmに届かず19kmで終了。後半はちょっと頑張ったが4:50以上にペース上がらず。
20180506lap
まあこうやって毎週生真面目に距離を積み上げていれば、そのうちペースも上がってくるでしょう。

先日の官九郎クンのブログに、オレは決めたメニューをやるのが苦にならない、ていうことを言ったと書かれていた。そしてその後に決めた通りにしか練習しないと免疫力も落ちる、と続いていて一片の悪意を感じた(笑)。

というのはもちろん冗談だが、オレも基本的には毎週の距離は墨守しているが、練習メニューは走り始めてから決めることが多い。多分言ったのは、よく一人で30km走は辛くてできないというのを聞くけどそれは苦にしたことはない、という趣旨だったと思う。そして官九郎クンもカミさんもトイレが近い(笑)



子どものころは本当にコツコツやるのが苦手で、というのもコツコツやっても効果が感じられたことが無かったからだと思うんだけど、毎日が三日坊主の塊だった。スポーツも勉強もいつか突然できるようになる日をぼんやりと待っていた。

仕事でも20代のころに、良くできるセンパイが飛び込み先に毎日名刺を置いていって、ついに取引が取れた時にその社長が名刺を全部取ってあったという武勇伝を聞いても、そういうのはオレのスタイルじゃないなあとかスカしていた。実力も無いのにホームランボールを待っていたわけだ。

そういう意味では、同世代でも死ぬほど努力して結果を出す人もいたんだけど、そういう人が不思議でならなかった。彼らはどうして努力がちゃんと結果につながるのか。自分はいくらやっても結果につながらない。まあ今思えば、努力が単に足らないだけなんだけど。いつか世界がオレの才能に気付く、くらいに思っていた(笑)。



30代も半ばになって禁煙を契機にマラソン、いや、ランニングを始めた。始めて参加したのが1999年の東京ベイ浦安シティマラソンのハーフ。いきなり1時間42分で走って、これは努力のお陰ではなく、オレの能力ならこのくらいで走れて当然だと思った(笑)。まあ月100kmくらいで大変でもなんでもないですけどね。

その後しばらくは特にタイムの短縮を狙っていたわけではないんだけど、2002年の荒川市民マラソンの前はたまたましっかりした練習ができて、3時間40分が切れた。キロ5分は切れなかったけど、それに近いペースで42.195kmで走れて、ああ、練習したらマラソンも速く走れるんだって、初めて思った。

だってキロ5分ですよ。走り始めたばかりの時はキロ5分というのはある意味、長距離を走れるギリギリのペース。最初は10kmが限界だった。それに近いペースでフルマラソンが走れたことに大いに手ごたえを感じた。その時オレ、38歳。苦手な努力で少しだけ成功体験ができた。

うーん。こうして振り返ってみると、この時に身近に速い人がいれば、35歳から38歳の3年でもっと追い込めてたかも。



話がそれた。

このあたりから仕事でも真面目にコツコツやる要素が増えてきて、見えないところをキチンと埋めるのが大事だということに徐々に気が付いてきた。というか、見えないところで手を抜いている事が後でバレると、ものすごく恥ずかしいということに気付いたというべきか。

マラソンと同じで仕事でもちょっとだけ持久力が増えた。以前のオレでは考えられないが資格も取って再就職には大いに役に立った。また話はそれるが、世間では「努力する才能」に恵まれた人がいるらしい。でも本人にしてみたら「コツコツ努力して努力する才能を身に付けたんだよ!」って言いたいのかもしれない。確かにそれを親からの遺伝だと片付けられたら失礼な話だ。



そして5月5日こどもの日の翌日5月6日はオトナの日。オレもaround50の最終年に突入!あと1年でなんとaround60だ。ランニングとブログのお陰でこの1年も実りの多い年だった。何よりも健康。健康診断の数値も何の不安もない。

ランニングはいつまで続けられるだろうか。今の健康はランニングとセットだ。走れてなかったらこんなに気持ちよく過ごせていない。健康のためだけなら月間300kmは不要だと思うけど、記録を狙っているからこその月間300kmだし、300kmだからこその気持ちよく走れる走力。

記録を狙わなくなったら走力も落ちて、走ってもそんなに気持ちよくはないかもしれない。そうしたら健康を維持できるほどに走れるのか。健康のために走るってなかなかむつかしい。自分の感覚的にはサブ3.5くらいで走れていればちょっとしたジョグも楽しく走れるのだが。



GWを振り返ると本当によく飲んだ。5月1日の鎌倉侵攻作戦の反省会は、ランの時間の倍の時間飲んでいた。5月3日は同じ5月生まれの人たちと誕生会だったんだが、これも夕方5時から10時前までよく飲んだ。話題の半分はTシャツと超音波治療器(笑)。5月4日はキャンプでお隣のご主人と仕事についての重い話。そして今日は家族で誕生会。

これでさっき体重を計ったら60.6kgだった。奇跡!

いや、130km走ったんだから当たり前か。around50最終年、まだまだ頑張りたいと思います。みっつさんではないけど、お酒は少しだけ控えようかと思っています。


本日の走行距離:19.0km
今月の走行距離:76.7km
本日の最低体重:60.6kg
20170918ブログ村

THさんが降格人事について赤裸々に語って下さったので、催促したオレも書かないわけにはいかない。実はオレは実質降格を二度食らっている。学習できていない、全然懲りていないのだ。以下にその経緯を書くが結構暑苦しいので閲覧注意です(笑)



一度目の降格は、あれは新ビジネスのために取引先との間で作った合弁の準備会社に出向したときのこと。その新ビジネスの検討フェーズから担当の課長として関わっていたオレはその開業のためのプロジェクトの実質リーダー。でもまだ40過ぎだったので、一応10歳近く年上の部長がその会社の社長になった。さらに経営企画部長としてなぜか同世代の課長が発令された。

社長、経営企画部長ともに実務についてはそれほど明るくない。なんと言っても新事業のコアになるのはシステム。二人ともシステム開発に関わった経験なし。この時点で正直暗い気持ちになった。たぶん何事も一から説明しないと話が進まない。そしてこの経営企画部長がイチイチ張り合ってくる。一応、その上の担当役員にも相談してみたが「この体制をちゃんと回せばお前は成長できる」とか言ってらちが明かなかった。最善の体制で臨むのがビジネスだと思うんだが・・・

実際にプロジェクトが始まってみると、システム開発のために採用した新興ベンダーが提供するパッケージソフトにはいろんな問題があった。その結果、新ビジネスの開業が当初予定から1年遅れることになった。社長が体調不良を訴えて入院したのはその日の夜だった。

当の役員も準備会社に飛んできて、プロジェクトの対応を議論していたその時、オレは不用意にも例の経営企画部長を難詰する言葉を吐いてしまった。その瞬間に担当役員の顔色が変わった。社会人には色々タブーはあるが、上の者の前で下の者同士が言い合いをするというのもその一つ。嫌う人は多い。

その3日後、オレは本社の人事担当者から呼び出され本社に赴いた。てっきり今回の諸々について事情聴取されるのかと思ったら、いきなりプロジェクトを即日外れろとの仰せ。もう天地がひっくり返るかと思った。そもそもオレ無しであのプロジェクトは進むのか?その後で面談した担当役員曰く「キミにはコミュニケーション能力が欠けている」。

それにしたって、オレを外してプロジェクトが進み始めるわけでもないだろう。自分のサラリーマン人生の集大成になるはずだったプロジェクト。それを奪われて明日から何を仕事にすればいいのか。絶望感にさいなまれていたところ、別のある役員が種明かしをしてくれた。まあ細かいことは省くが、要するに権力争いに巻き込まれたとか、プロジェクト延期のスケープゴートにされたとか、そういうことらしい。大いに凹んだ。といいながらその直後にトモコとの結婚も果たしたのだが(笑)

そういえば最近突然解雇された人がいましたね。やっぱり不自然だよね。彼の気持ちは良く分かる。まさに「梯子を外された」感。





ということで出向する前は本社で課長、この別会社では部長だったオレだったが、プロジェクトを外されて本社の平社員に逆戻り。その後しばらくして課長にまでは戻ったが、結局この件で×がついたオレの昇格はある時点で頭打ちとなった。

その時に思ったこと。実質的にリーダーというポジションを引き受けた時点で、オレはサラリーマンとしてのリスクも取ったのだ。それなりの規模の会社なので、物事が動くときに色んな人の思惑が絡むのは当たり前。それに対して脇を固めて十分に自分自身を守れなかったオレには、サラリーマンとしての能力が欠けていた。実務レベルでいくら実力があっても、そんなことでは自分のやりたいことをやったり、一緒に働く仲間を守ることはできない。

それにしても昇格が頭打ちになったのは本当に辛かった。それから5年近くその思いに悩まされた。なんというか、全人格を否定された気がした。あれに比べたらフルマラソンの40kmの辛さなんて屁でもない。マラソンは肉体の苦痛に過ぎない。

その後も降格騒ぎがあったんだけど、それは完全に巻き込まれ型。といいながらオレの脇の甘さもあったな。学習できてない(笑)

でもいよいよこれ以上の昇格は仕組み上も無理だと分かった時、ようやくオレは頭を切り替えることができた。そう、会社が人生なんかじゃない。だいたい全員が勝ち続けられるわけではない。たとえ社長になったって晩節を汚す人は多くいる。だからこれは勝ち負けなんかじゃなくて、会社がオレに付けた記号に過ぎないんだ。だいたい会社に人の人生を値踏みする権利なんてない。自分の値打ちは自分で決めればいい。

そう思ったら、お先真っ暗だったサラリーマン人生が急に違ったものに見えてきた。それがちょうどフルマラソンを再開した頃のこと。たんに頭の中で割り切れただけでなく、マラソンとブログもオレの再生を手伝ってくれた。同時にこれまでの自分のサラリーマン人生も肯定的にとらえられるようになった。それまで以上に、目の前の仕事に真剣に取り組むようになったかも。








オレの仕事の話とか、うまくいったことの話が暑苦しくてウザいのは、多分こういう経験の反動です。でもチャレンジしてこうなったんだから、その結果は受け止めようと今は素直に思う。それに色んな経験をしたおかげで、転職再就職先では重宝されている気がする。何がどう役に立つかわかんないですね。(自ら勤務先を退職して自分で就職先を見つけたように読めるので修正しました。元勤務先からの斡旋による再就職です。普通に転職する度胸はありません)

だからやっぱりサラリーマン諸兄には、今の場所でベストを尽くそうよって思うのだ。サラリーマン生活が終わるときに後悔しないように。余計なお世話だけど。会社を辞めさえしなければ家族は守れる。オレもそこは守った。どんなに悔しくてもネガティブな理由では会社は辞めなかった。


これまでの勤務先を今月末で正式に退社するので、この話ももう書いていいかなと思い、切っ掛けもあったので書いてみた。かなり暑苦しくなったので、今週は「限界費用ゼロ社会」はお休みです(笑)
20170918ブログ村

↑このページのトップヘ